みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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里人たちの歩みを見守った 流転の粟田地蔵さま(横須賀市)

湘南橋の交差点から佐原を経て、長沢へと至る道が県道27号線です。

途中、島田公園の交差点を折れて海側へ入ったところに、一段高くなったところにお地蔵さまが祀られています。

 

交差点にあることや比較的新しそうに見えた事から、交通安全のお地蔵様かと思っていましたが、よく見てみると「粟田地蔵尊」という名前がついているようでした。

 

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「北下浦文化マップ」には、この粟田地蔵尊が紹介されていたのでマップを片手にじっくりと観察することにしました。

 

この粟田のお地蔵さまは、もともとは粟田小学校辺りにあった松の大木の下に祀られていたそうです。

粟田街道を通行する旅人たちの道中安全や、歯痛・頭痛などに霊験あらたかであるとして古くから信仰されていたそうで、昭和46年土地開発のあおりを受け、行き場を失ったために当地の中田家によって現在の地に移されたそうです。

 

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北下浦文化マップには、「諸願成就のお礼参りには貝殻をささげる習わしがあり、今も貝殻が絶えない。」とあります。

かつては、津久井の岩船地蔵さまのように貝殻のネックレスなどがたくさんかけられていたのかもしれません。

 

 

お顔の部分も明らかに材質が異なり、自然とどこかへ行ってしまったのか、それとも長沢の岩船地蔵さまのように誰かが持ち帰ったものがそのままにされてしまったのか、その理由は今となっては知る由もありません。

 

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昭和38年に野比駅(現YRP野比駅)が開業するまでは、このあたりは横須賀でも人家もないような寂しい場所でした。

駅前から岩戸へと続く、いわゆる「粟田道」は現在では大きく切り開かれてひっきりなしに車が通る道となり、周囲も明るく切り開かれて住宅地となっていますが、大正時代ごろには折れ曲がった道にうっそうとした木が生い茂って昼なお暗く、強盗や追剥ぎまで出たといいます。

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それでも、下浦方面から横須賀方面へと出るにはこの道を通るのが便利だったために、牛や馬に大八車を引かせて、物流の中心となりました。

 

横須賀の物流と人々を見守り続け、多くの里人たちの心のよりどころとなった粟田地蔵さまは、今日も交差点の片隅にじっとお立ちになり、手をつなぎ楽しそうに歩いていく親子連れや、大八車に代わり荷物を満載したトラックなどを見守っています。

 

 

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