小田急線渋沢の駅から曲松の交差点を南下していきます。
このあたりは原付で走ると気持ちよく、三浦半島に続いてお気に入りのところです。
やがて峠隧道の手前、「渋沢中学校入口」のバス停の近くから山路へと入っていきます。
その山路をずっと登っていくと、道路わきの草むらの中に、見落としてしまいそうな小さな社が隠れるようにしてありました。
これこそが美しい姫様の哀話を今につたえる「かりがねの松」の社と呼ばれる社だということです。
この「かりがねの松」の民話は、ずっと長い間この里で語り継がれてきたもので、いつ頃の話であるのか、またその真偽のほどははっきりしていません。
むかし、この道は西へは京へ上る道として、また西からは大山参りの旅人の通り道として栄えた道だったそうです。
この近くには、「ちむらわかされ」と呼ばれる辻がありました。
辻とは現代でいう交差点の事です。
ある真冬の寒い日、いつもなら旅人で賑わう道であるのにこの日は誰も通る人がなく、吹き付ける吹雪の中をただひとりの若いお姫様が歩いていました。
従者もなく、馬もなく、ただ一人で雪の中を歩いていた事情は今となっては知る由もありませんが、幸せな旅ではなかったことは想像に難くありません。
このお姫様は「ちむらわかされ」まで来ると、とうとう力尽き、胸を押さえ抱えるようにして倒れこんでしまったのです。
これを見つけた村人が驚いてお姫様を抱え起こしたところ、まだわずかに息があります。
さっそく家に連れて帰っては手厚い看病を施し、暖かい部屋でお姫様はようやく目を覚ましました。
お姫様は、絶え絶えの息の中から振り絞るように、「自分はかりがねといって都から歩いてきた」ことだけを話すと、悲しいかなそのまま力尽き、再びの懸命の看病のかいもなく還らぬ人となってしまったのです。
この寒い中、都から一人で歩き旅をするなどよほどの事があったに違いない。
お姫様を憐れに思った村人たちは、お姫様のなきがらと持ち物をねんごろに葬り、そこに一本の松を植えて墓標としたのです。
松はやがて大きくなり、その見事な枝ぶりは口では言い表せないものになりました。
その大きく広げた一枚一枚の葉はまるで雁の羽のようであり、またその枝ぶりは羽を広げた雁のようでもあり、たいへんな評判になっていったのです。
その美しさはかりがねの姫の美しさともたとえられ、その哀話とともに今なお語り継がれ、この地で大切にされているのだという事です。
今となっては、そのような哀話も古びた看板でしか伝えられていません。
その文字ですら薄れて読みづらくなっており、いつしかこのような民話も忘れられていくのかと思う事が何とも残念です。
いま、原付を走らせてこの「かりがねの松」へ参拝し、近くの木々の合間より眼下に望む秦野市の街を眺めるとき、寒風吹きすさぶ中この道を歩いていたであろうかりがね姫の寂しげなうしろ姿がにわかに蘇るようで、ここにも時の流れの無情さをそくそくと感じるのです。