愛車シグナスXで三崎街道を南下していく。
途中、京浜急行の三崎口の駅を過ぎ、引橋の交差点を過ぎて松輪入口、油つぼ入口、宮川入口と象徴的な名前の信号を過ぎて栄町商店街に入っていくと、道の両側に庚申塔や墓碑が並び、枝を切られた銀杏の樹の奥に寂れた小堂がある。
この小堂は臨斎宗 大椿寺の末寺である海潮山 真浄院といって、この辺りでは「原のお地蔵さま」と呼ばれている無住寺であるが、どちらかと言うと町内会などで集まりに利用される集会場のような役割を持っている。
かつて、毎月三の日のつく日は地蔵市の旗が立てられて、商店街は大変な賑わいであったそうだが、今となってはその習わしも廃れてしまったようである。
現在は地蔵堂の扉は固く鍵がかけられ、中の様子は知る由もないのであるが、10年ほど前だったか、当時はバスと歩きでこの辺りを巡っていた事があり、その時に管理されていた方にお願いして参拝させて頂いた思い出がある。
この堂内の左手には、見上げるような大きさの閻魔大王が祀られており、その足元から見上げる者を見下ろす、射るような鋭い眼光と、カッと開いた口が今にも亡者を怒鳴りつけようとしているかのようで、その造形の巧みさには目を見張るものがあった。
その右側にはとても古い厨子が安置されており、その中には秘仏である本尊の石造地蔵菩薩座像が祀られており、これは三浦市の重要文化財となっているのである。
この地蔵菩薩坐像は慎重170センチのみうけんよりもいくらか高いといった程度で、おそらく鎌倉時代末期から室町時代にかけて作られたものとされている三浦半島最古のものであるという。
この痛々しいまでに傷ついた地蔵菩薩の坐像は、かつて三崎の海南神社の境内にあった海潮寺の本尊であり、海潮寺が廃寺となってから現在の真浄院へ移し、山号も海潮山と改めたという事である。
この地蔵菩薩像は後に「首切地蔵」または「身替り地蔵」という、古くより語り継がれてきた三浦一族滅亡にまつわる悲しい悲話を今に伝えているのである。
時は永正13年(1516年)7月、北条一族に攻め立てられて新井城に立て籠った三浦道寸とその一族は、刀折れ矢も尽き、兵糧にも事欠く有り様で、いよいよ籠城戦も限界となった。
開城して降伏するか、城を枕に討ち死にの決戦をするかで討議されていたが、ついに決戦と決まったのである。
その旨を三崎城を守備する出口茂忠(新井城主の三浦時高の弟、出口高信の子。新井城の出口に居したので出口と名乗った。その名残は、初声町下宮田の出口という小字に残る)に伝えるために、伝令役として川島吉隆の家臣、川島身七が選ばれた。
身七は新井城を死に場所と覚悟していたが、敵中を突破できる者は他にいないと説得され、意を決して海を泳ぎ、苦労の末に伝令を果たしたのである。
しかし、伝令を終えて油壷の新井城へと帰途を急ぐ身七が目にしたのは、油壷の名の由来ともなった海面のおびただしい血糊と、炎を上げて崩れ落ちる新井城であった。
すでに戦が決したことを悟った身七は覚悟を決めたが、その反面で死に場所を失ったものであるから、次第に死というものが恐怖へと変わったという。
新井城を落とした北条一族はわずかな手勢を新井城に残すと、残党狩りをしながら三崎城へと駒を進めた。そして、その行く手の原の寺のあたりで身七に残党狩りの刃が向けられることとなったのである。
身七はとっさにこの地蔵堂の床下へ隠れ、日ごろ信心していた地蔵菩薩に向けて地蔵経を一心不乱に唱えた。
すると残党狩りの声は遠ざかり、その中で首級を挙げたという話がわずかに聞こえたので、他に誰が首を斬られたのかと恐る恐る這い出してみると、そこには首が斬り落とされた地蔵菩薩の石像が転がっていたのだという。
こうして地蔵菩薩の身代わりによって一命を取りとめた身七は、武士としての生きざまを改めて剃髪し、地蔵坊身七という名を名乗って新井城の戦いで散った三浦道寸以下、一族郎党の霊を慰めるべく読経三昧の生涯を送ったのだという。
なお、三崎城の出口茂忠は身七の知らせにより、三崎の舟を集めて城ヶ島に渡った。
北条一族は舟を持っていなかったので追う事ままならず、近くの漁師の舟を徴用して襲い掛かろうとしたが、海戦では百戦錬磨の三浦水軍によって手痛い目に遭わされた。
北条早雲は鎌倉建長寺と円覚寺の和尚に仲裁を頼んで講和を結び、三崎城の残党は北条一族の家臣として仕えたという事である。
いま、この哀話を思い浮かべながら古色蒼然とした無住の地蔵堂の前にたち、
真こころに つくる浄土を みそなはす
このみ仏の 有難きかな
という御詠歌を口ずさむとき、心のよりどころであった新井城の焼け落ちる姿を目の当たりにして、来る日も来る日も読経三昧に過ごした身七の哀話が思い起こされ、三浦一族の歩んだ壮絶な歴史が昨日のことのように思い起こされるのである。