三浦市の「油つぼ入口」の交差点から南東に160メートルのところ、畑が続く農道の脇に小さな階段があります。
最近になって「如意輪観世音菩薩」の看板が出て分かりやすくなりましたが、ここは通称「原のかんのんさま」と呼ばれ地域で親しまれている、臨済宗寺院の円通山 蓮乗軒(もと蓮乗院) 観音堂です。
このお寺がいつ創建されたのか、詳しい年月はいろいろな史料を探しても載っていませんでした。
ただ、このお寺を開創したのは三浦道寸公の家臣であった川島吉隆である、とされています。
この川島吉隆という名前は、先に紹介した「原の身代わり地蔵堂」でも、チラリと名前が出てきます。
この蓮乗軒の由来について、興味深い言い伝えがありました。
むかし、三浦一族が北条一族に攻め滅ぼされたとき、三浦道寸公の奥方(横須賀連秀=よこすかつらひでの娘)が川島吉隆に守られながら命からがら脱出し、川島吉隆の領地であったここ原に隠れます。
その後、髪を落として尼となり、この地に小さな庵を結んで、自らの夫であった道寸公をはじめ、壮絶な戦いの末に戦に散った三浦一族主従の菩提を弔いながら、ここ原に隠れ住んだとされています。
江戸期に編纂された一大史料「新編相模国風土記稿」には、蓮乗軒は川島吉隆の創建であるとハッキリと記述されており、東瑞(享保4年;1719年没)という僧が中興した、と伝えています。
本尊の如意輪観世音菩薩像は三浦三十三観音霊場の第三番札所ともなっています。
これは、恵心僧都が一刀三礼して彫り、道寸公の奥方の守り本尊であったと伝えられています。
また、どういった経緯があるのか安産に対して霊験あらたかである、と当地に「三浦道寸研究会」が設置した案内看板に書かれています。
三浦道寸公の奥方といえば、別の言い伝えでは戦火の中を身重な体をひきずって逃げまどい、ついに真光院わきの「なもた坂」の下で死産した挙句に自害した、という悲しい言い伝えもあります。
このあたり、何か安産と関連があるのかもしれません。
この場所で、ずっとこの観音さまは地域の信仰を受けてきたのでしょう。
決して観光名所などではなく、地図にもなかなか記載されないような小さなお寺ですが、境内には荒くれる海の上を竜が身をよじらせて躍るさまが見事に表現された安政5年(1858年)の手水鉢が残され、いかにも海と共に生きてきた三浦の人々ならではの、この原のかんのんさまに対する愛情が感じられます。
また、普段はあまり訪れる人のない、ひっそりと静まり返った境内ですが、そこには優し気な表情の六地蔵さまが静かに微笑み、時代が平成から令和へと変わった現代でも変わらずに人々の暮らしを見守ってくださっています。
いま、夏風そよぐ蓮乗軒の境内で、堂内の如意輪観世音菩薩に延命十句観音経をお唱えし静かに手を合わせるとき、どこまでも続く蝉時雨の陰に、かつてここで読経三昧に生きた道寸公の奥方の後ろ姿がにわかに蘇るようで、ここにも昔日の忘れがたき思い出がゆらめくのを感じたのです。