三浦三崎の交差点「油つぼ入口」から西へと原付を走らせました。
約500メートルいくと、道筋の階段の上にひっそりと佇んでいる浄土宗寺院である荒井山 潮音寺 真光院というお寺にたどり着きます。
このお寺は阿弥陀如来の立像をご本尊様としていただき、通常は真光院と呼ばれて地図にもそのように記載されています。
有名な観光名所でもなく、完全に地域の方々が通う檀家寺のような雰囲気ですが、みうけんは個人的にその素朴さが気に入っています。
この真光院は治承4年(1180年)に人阿上人によって開山されたと伝えられています。
ちょうど、源頼朝が伊豆で旗揚げをした年で、この近辺は三浦一族の領地でもありました。
また、この真光院は、三浦道寸義同公とその子であった三浦荒次郎義意公が深く帰依していたお寺であったと伝えられています。
三浦道寸義同公と三浦荒次郎義意公は、新井城の戦いにおいて悲運の死を遂げた三浦一族最後と言われる頭領でした。
現在、本堂の内陣には江戸末期に作られたといわれている三浦道寸義同公と三浦荒次郎義意公の木造が安置されており、普段は厨子の中に大切に納められていますが、この日は特別に拝観させていただきました。
まずは三浦道寸義同公とされる座像。
衣冠束帯姿で肩をいからせ、武将らしい勇ましい顔つきをされています。
座り方に特徴があり、胡坐(あぐら)のようでありながら足の裏同士を合わせて座る「楽座」という形でお座りになっています。
これは「征夷大将軍」や「相模守」など、朝廷から称号を賜った高い位の武士階級がする座り方で、「拝み足」や「貴人座」とも呼ばれ、宮中での公家貴族の座り方でもありました。
続いて、三浦荒次郎義意公とされる座像です。
こちらは、三浦道寸義同公のものよりさらに険しい顔だちをされています。
身の丈は七尺五寸、今にして2メートル27センチとされ、当時としてもかなりの巨漢であるばかりか、筋骨隆々として髭は濃く、八十五人力と評されるほどの勇猛果敢ぶりであったと評される三浦荒次郎義意公の武人ぶりをよく表していると思えます。
「楽座」でお座りの三浦道寸義同公にくらべ、三浦荒次郎義意公は侍がラフに座る「安座」という座り方をされているように見えます。
また、胴の部分にもうっすらと三浦一族の紋が入っているのも興味深いものです。
拝観のさい、お寺の奥様から色々とお話をいただきました。
やはり、ごくまれに「三浦一族の末裔だ」と名乗る方が拝観に来られるそうです。
なにぶんにも古いものだし、貴重なものなので普段は厨子の中に大切にしまっているという事でした。
このお寺には、この他にも幕末に浦賀奉行の与力をつとめた中島三郎助が将軍より拝領した観音像を、戊辰戦争の戦火を免れるべくここに納めたとされる観音像が安置されています。
この時の小網代村の名主の家の屋号が「なもた」であり、ここから「なもた坂」の名がついているのだという事です。
この時は御住職がご不在でしたので、書置きの御朱印を頂きました。
書置きであろうとスタンプであろうと、このようなご縁を頂いて形に残せたことに深く感謝です。
みうけんも、観音像の前と本堂の御本尊さまに対し読経をさせていただきました。
また、奥様からお年賀を頂きました。
てっきりタオルかと思いましたが、中身はマスクでした。
このような時節柄ですから、ありがたいことです。
大切に使わせていただきます。
今、すっかりと参拝を終えて本堂を後にし、香華の香り残る観音堂のお厨子に一礼し、また六地蔵にも一礼をして真光院をあとにしました。
このように一見して目立たないような、地元の方向けの小さなお寺にもしっかりと三浦一族の歴史は息づき、今の時代に脈々と受け継がれていることを思うとき、かつての相模一帯を支配した三浦水軍の雄姿がまるで眼前に鮮やかに蘇るかのようで、深い感慨を覚えるのです。