みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

三浦荒次郎義意公の奥方を供養する 無住の霊照院(三浦市)

三浦半島の「油つぼ入口」から新井城址や油壷の方に入る小道、いわゆる県道216号線(油壷みち)を西へ進んでいきました。

途中、脇にそれる道があり、地図を見ると古道が走っているようだったので脇道にそれて原付をゆっくりと走らせていきました。

 

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いかにも旧道 然とした、木陰から陽光差し込むのどかな道を走っていくと、道脇に小さなお堂が見えてきます。

一見して普通の一軒家のようですが、確かにその脇には墓地があります。

 

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また、雨戸こそ固く閉められて中の様子はうかがい知る事が出来ないものの、正面に大きく向拝を設けたその独特な構造は、ここがお寺の本堂である事を俄かに物語っているのです。

 

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ここはもともと「里墓の地」で、その中心には無縫塔が並んでいます。

この無縫塔は卵塔とも呼ばれるもので、だいたいがお坊さんのお墓であるとされ、特にこのようにいくつか固まっている場合は歴代住職の墓である事が多く、その地がかつてお寺やお堂であったかも知れない事を教えてくれるのです。

 

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地域史料を探してみると、やはりここはお寺で、三浦道寸公が開基された永昌寺の子院といわれている、霊照院というお寺のようです。

永昌寺は現在でも、この地から小網代湾へ向かっていく急な下り坂を降りきったところにあります。

 

江戸期に編纂された一大歴史史料である「新編相模風土記稿」の「三浦郡 衣笠庄 小網代村」の項には、以下のように記載されています。

 

永昌寺 子院 霊照院

境外にあり。本尊大日。霊照は三浦荒次郎義意室の法名にて。其 追福の為に建立すと云。

 

さて、もう一つの史料である「三崎郷土史考」(内海延吉著)では、

 

堂は新井館横を入って、左折する道の傍にある貧農の荒屋(あばらや)か物置の様な建物である。

これが荒次郎の妻の追福を祈るために建てた霊照院だと思うと、当時の簡素な建築様式が想像されこのまゝに残して置きたいと思う。

 

と紹介されています。

なにぶん古い資料なので現在は新井館はすでになく、バス停も「新井館前」から「シーボニア入口」に改められていますし、この時に書かれている「荒屋」が現在の本堂であるかどうかは分かりません。

 

この霊照院を子院に持つ永昌寺は、先ほども書いたように小網代湾近くに現在も残る臨済宗の寺院で、永正元年(1504年)の創建です。

寺号は三浦道寸公の法名からとったと言われており、天保6年(1835年)に焼失したのをきっかけに現在の地に移ったのだそうです。

 

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その永昌寺の子院がこの霊照院で、三浦道寸公の子であった三浦荒次郎義意公の奥方は上総真里谷城主の真里谷信勝の娘でした。

 

念のために申し上げておきますが、三浦荒次郎義意公の奥方は「小桜姫」である、とおっしゃる方がいますが、それは後になって書かれた小説のなかの作り話ですし、小桜姫というのはまったく架空の人物です。

 

しかし、このお寺が三浦荒次郎義意公の奥方の追善供養の為に作られたというのは間違いのないようで、その親寺が三浦道寸公の法名を寺号にいただく永昌寺とあれば、これはなおさらです。

 

この霊照院には、先ほどにも紹介した三基の無縫塔と、その前に並んでいる七基ほどの石仏が目につきます。

そのどれもが江戸時代に建立されたもので、寛永年間、寛文年間、あと読み取れたものは元禄五年(1692年)、宝永元年?(1704年?)、享保十二年(1727年)のものがありました。

他にもいくつかありますが、どれも磨滅が激しくて読むことはできませんでした。

 

また、お寺にはつきもののの六地蔵もしっかり残されており、かつては多くの信者たちに大切にされていたのでしょう、今でも綺麗に掃除されていたり、花が供えられていました。

 

これらの石仏に供えられた花たちは、どれも路傍から摘んできたもののようで、このお堂をお世話している方々の素朴な信仰心が伝わって来るかのようです。

 

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かつて悲運の最期を遂げた、豪勇の誉れ高き武将であった三浦荒次郎義意公の奥方も、今なおこうして大切にお守りされていることに対し、きっと満足されていることでしょう。

 

いま、トンボの飛び交う晩秋の夕暮れに、この人気のない霊照院の境内に一人たたずみ、石仏の一つ一つに手を合わせていると、かつて戦乱の世に生き悲運の最期を遂げられた三浦荒次郎義意公と、その奥方の事がにわかに思い出され、ここにも歴史の深さをしみじみと感じるのです。