みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

信仰に生きた女傑の母 性殊院殿の墓(南足柄市)

伊豆箱根鉄道大雄山駅から、足柄峠へと向かう県道78号線を西へ向かうと、雨坪の里に日蓮宗寺院である関本山 弘行寺(ぐぎょうじ)というお寺があります。

 

この弘行寺の起源はとても古く、弘安5年(1282年)に日蓮上人が身延山久遠寺から池上の本門寺へと向かう途中、下田五郎左衛門という人の屋敷に宿泊しました。

 

のちの弘安年間(1278年〜1288年)に、その屋敷を日蓮上人の霊跡であるとして日弁上人が寺としたのが起源といわれており、弘行寺の名もここからきているのだそうです。


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江戸時代後期に編纂された相模国の一大地域史である「新編相模国風土紀稿」の足柄上郡 苅野庄 雨坪村の項には、弘行寺に対する記載があります。

 

そこには「養殊院殿母堂墓」という見出しで

五輪塔ナリ。高二尺八寸。法名性殊院妙用日理ト号ス。天正十九年八月七日死。按ズルニ。養殊院殿ハ。紀伊国大納言頼信卿ノ母公ナリ。當寺ニ葬セシ來由詳ナラズ。

 と紹介されていて、この「養殊院殿母堂墓」は現在もお寺の片隅に残されています。

「養殊院殿」の「母堂」とは生前の名を萬、法名を「性殊院殿」という女性でした。

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ここに葬られている「性殊院殿」というのは、いったいどのような人だったのでしょう。

 

このお墓の脇に設置された案内看板には「性殊院殿」の娘である「養殊院殿」の説明があります。

「按ずるに養殊院殿は紀伊大納言信卿の母公なり」とあり、さらに「お萬の方」という名で正木頼忠の娘、蔭山氏廣の養女で蔭山殿と称し徳川家康側室となられたお方である、とまで説明されています。

 

ここで出てくる正木 頼忠(まさきよりただ)という人は、三浦半島で滅亡した三浦一族の末裔で、戦国時代末期に房総半島あたりで活躍した正木氏の人でした。

三浦一族最後の当主であった三浦義同の子か、もしくは義同の弟の三浦義時の子である正木通綱(まさき みちつな)の孫にあたる人物です。

 

この養殊院殿は天正5年(1577年)に正木頼忠を父として生まれました。

性殊院殿は正木頼忠の妻、養殊院殿の母親、ということになります。


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この性殊院殿が蔭山氏広と再婚したことで性殊院殿・養殊院殿ともども蔭山一族となりますが、義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰していました。

そのため、養殊院殿も日蓮宗を熱心に信仰していたと言われています。

 

養殊院殿は文禄2年(1593年)には徳川家康の側室となり、のち紀州徳川家の祖となる徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)水戸徳川家の祖となる徳川 頼房(とくがわ よりふさ)を出産しました。

 

しかし家康は浄土宗を信仰していたために宗教上の対立は避けられず、家康は日蓮宗側の僧侶などに浄土宗信者の家臣を差し向けて亡き者としようとします。

結局は、逆に浄土宗側が返り討ちにあってしまい日蓮宗側が勝利しますが、これにより怒った日遠上人は身延山法主の座を辞し、家康が禁止した日蓮宗論を上申したのです。

 

これに激怒した家康は、日遠上人をはりつけにしようとします。

しかし養殊院殿が「日遠上人は私の師ですから、日遠上人が死ぬときは私も死にます」と強硬な姿勢を崩さなかったために、日遠上人は放免されたのだといいます。

 

この時の養殊院殿の行動は評判になり、感動した後陽成天皇により自ら「南無妙法蓮華経」と御首題をしたためたものを養殊院殿に下賜したといわれています。

このように信仰の道に生きた養殊院殿でしたが、承応2年(1653年)に亡くなりました。

 

波乱と信仰の生涯を経た養殊院殿。

しかし、母親の性殊院殿に関しては多くの記録は残されておりません。

 

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この、母親の性殊院殿の墓とされる説明版には甲州身延に往復された途次に(略)亡母の冥福のために遺物を埋葬されたのか、母堂がここで亡くなられたのを供養されたのか」と推測されているのみです。

 

かつて、ここでどんな供養が行われたのかは、今となっては知る由もありません。

ただ、静かな境内の中でこの小さなお墓に向き合っていると、まるでそこに一心に南無妙法蓮華経を唱えて手を合わせる、老いた養殊院殿の後ろ姿が蘇るようで、ここにも限りなき時の流れのはかなさを、そくそくと感じさせられるのです。