横浜市と横須賀市を南北に結ぶ国道16号線は通称「横須賀街道」とも呼ばれています。
その交通量はたいへん多く、いつも数えきれない程の車たちが砂埃を上げながら北へ南へと疾走していますが、その一角に青砥(あおと)という交差点があります。
この近辺は、有名な歴史書である「太平記」に登場して、後に大変な人気を博した鎌倉時代の武将、青砥藤綱(あおと ふじつな)が治めていた場所であるという言い伝えがあります。
そのためか、今でも住宅街の中に残る「青砥産土神社」には、彼のものと伝わる墓が残されています。
現在、この青砥産土神社には小ぢんまりとした本殿の前に、大正14年12月に建立された碑とともに五輪塔の残欠が残り、またその脇には石屋根付きの庚申供養塔が立っています。
この五輪塔の残欠が青砥藤綱の墓である、と言われているのです。
青砥藤綱は、正式には青砥左衛門尉藤綱(あおと ざえもんのじょう ふじつな)といって、鎌倉時代の執権であった北条時頼に仕えた人物です。
現代でいう裁判官のような役割をしておりましたが、常にひいきや差別などせず、権力にもこびない、当時としては珍しい人でした。
そればかりか、幕府の要職としていくつもの所領を持ち、生活は豊かであったにもかかわらず質素な暮らしぶりで、着るものは絹ではなく粗末な麻の着物を着て、食べるものといえばおかずは焼いた塩と乾し魚1匹のみという倹約ぶりでした。
また、自分の財産をほとんど他人へと施し、入る収入は大方を貧しい人に分け与えていたといいます。
ここに残るお墓も、産土神社の敷地に埋もれるようにしてひっそりと建ち、その飾らず目立たないありようは青砥藤綱の人柄を今に伝えているかのようです。
青砥藤綱の公平性については、いくつかの逸話が残されています。
ある人が、土地の所有を巡って北条時頼と争ったことがあり、他の奉行たちは権力者であった北条時頼の顔色を伺った判決を出すばかりでしたが、青砥藤綱は公平な裁判により地主に土地を返しました。
たいへん感激した地主は多額の謝礼をしましたが、すでに給与を頂いているのに、これ以上のものを受け取るわけにはいかぬと固辞したために、その評判は広く知られるようになったそうです。
一番有名なのは「10文銭」の話です。
青砥藤綱は当時、鎌倉十二所の浄明寺のあたりにあったとされ、現在も記念碑が建てられています。
すぐ前の滑川には青砥橋という名までつけられています。
これより下流の東勝寺のあたりを青砥藤綱が通った際に、滑川に10文の銭を落としてしまいました。現在でいう600円から1000円程度の価値だそうです。
青砥藤綱は、すぐに家臣に命じて松明(たいまつ)を50文で買ってこさせると、その灯りを使い、やっとの事で10文のお金を見つける事が出来ました。
これを見ていた人たちは、10文を探すためになぜ50文を費やすのか、と口々に噂し嘲笑したといいます。
それに対して青砥藤綱は、
たった10文でも見捨ててしまえば川に流されてしまうではないか。
今ここで50文を使えば、世の中には流通して役に立つ。さらに失った10文まで取り戻す事が出来たのである。合わせて60文の流通をはかる事こそ、世の中の利益となるのだ。
と説いたので、人々は感心して聞き入ったという逸話が残されています。
時代は流れて江戸時代になると、青砥藤綱は一躍して脚光を浴びることになります。
その裁判の公正性、権力者の不正から民衆を守る姿などが歌舞伎などで大人気を博したのです。
浮世草子「鎌倉比事」や読本「青砥藤綱摸稜案」、歌舞伎では「青砥稿」や「青砥稿花紅彩画」などで有名になりました。
東京都葛飾区の大光明寺(旧極楽寺)には、青砥藤綱が奉納したと伝わる弁才天像が伝えられ、江戸時代に建てられた青砥藤綱供養塔が残されています。
ここ横浜市金沢区の青砥の記念碑は大正14年12月に建立されたものです。
そんな青砥藤綱ですが、いくつか持っていた領地のうち、どこに葬られたのかは諸説あり定かではありません。
ここ金沢区に残されている青砥藤綱の墓も、真偽のほどは全く分かっていませんし、なぜここに葬られているのかすらよくわかっていないそうです。
ただ、この辺りが青砥藤綱の所領であったことは間違いないようですし、今なお眼下に横浜の海を一望できる風光明媚なところですから、その昔にここを終の棲家として選んだとしても不自然なことはないと思います。
多くの人気を得て歌舞伎の題材にまでなった青砥藤綱。
彼が、その逸話多き人生をここで締めくくり、今もここで静かに眠っているとすれば、そのあまりに質素な墓のありようも合点がいくような気がします。