大船駅東口の雑多な商店街を抜けると街は閑静な住宅街へと変わっていく。
その住宅街の先にあるのが臨済宗建長寺派の寺院である粟船山 常楽寺(ぞくせんざんじょうらくじ)であり、鎌倉時代の嘉禎3年(1237年)に北条泰時を開基としてつくられた古刹である。
質実剛健として古風な茅葺屋根の山門をくぐると、凛とした静寂の中に本殿があり、その中には御本尊様の阿弥陀如来像、脇侍に観音菩薩と勢至菩薩が祀られている。
また、天井には狩野雪信が描いたとされる竜の図と、仏殿裏手には北条泰時の墓が残されており、いかにも古都鎌倉の風情にふさわしく、見どころの多い名刹であろう。
本堂の天井画を描いた狩野雪信は江戸時代初期に活躍した狩野派の女性絵師であり、有名な狩野探幽は大叔父にあたる。
江戸時代には狩野派随一の画家として知られ、花鳥図や観音図、紫式部図など風雅を多く残しているが、この仏殿に残されている「雲龍図」は力強く躍動感にあふれ、鋭い眼光と今にもうねりねじれそうな躯体の表現が絶妙であり、これが寺伝通りに彼女の作品であるならば、極めて異色の作品であろう。
また、本殿の裏に残された簡素な墓は北条泰時の墓である。
北条泰時は鎌倉幕府第2代執権であった北条義時の長男で、鎌倉幕府第3代執権に就任し御成敗式目を制定した人物として名が高い。
民を慮り、常に民とあって贅沢をせず、むしろ税を減免したり土木工事で自ら石を運んだりした人物で、大変徳の高い人物であったとされるが、その北条泰時についてはまたいつか改めて取材に行きたいと思っている。
さて、ここまで来てようやく本題に入るのであるが、この常楽寺の裏山にはひっそりと隠れたように残された見どころがもう一つある。
それが木曽義仲の子、義高の墓と伝わる「木曽塚」である。
時は平安時代の末期にさかのぼる。
木曽義仲は源義仲ともいって、平安時代末期の信濃源氏の武将であった。
木曽義仲は信濃を中心に勢力を広げて、もはや朝日も昇るかの勢いであった。関東には同じ源氏の源頼朝がおり、次第に対立を深めるようになっていくが、今は闘う時にあらずとして木曽義仲が11歳の嫡子を義高を鎌倉へ人質として差し出す事にした。
この嫡子が木曽義高である。
これによって関東からの侵攻を防いだ木曽義仲は、以仁王の令旨によって挙兵し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京した。
しかし、飢饉と戦乱で荒廃した都の治安回復を期待されつつも成果は出せず、むしろ大軍を都に居座らせたことによる食糧事情の悪化をまねき、皇位継承などにも度々口を出していたために後白河法皇と不和となってしまう。
結局は法住寺合戦のさい、後白河法皇と後鳥羽天皇を捕らえて幽閉し征東大将軍にまでなるものの、木曽義仲を見限った源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれてしまうのである。
こうなると残された人質の木曽義高は哀れなものであった。
源頼朝が義高を抹殺しようと画策している事を察したのは、義高の許嫁であり、源頼朝の長女であった大姫であった。
大姫は義高を密かに逃がそうとする。義高と同年であった側近が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出したのである。
しかし、夜になって事が露見すると頼朝は激怒し、軍勢を繰り出して武蔵国で義高を捕らた。
義高は弁明の時間すら与えられず、入間河原において親家の郎党・藤内光澄に討たれてしまい、ここに悲運の少年、木曽義高の12年の生涯は幕を閉じたのである。
いっぽう、義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ、ついに病床に伏してしまった。
母の北条政子(頼朝の妻)は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫ったために、藤内光澄までもが晒し首にされてしまったのである。
この常楽寺の裏山の細い道を上っていくと、そこは静寂の中で竹の葉が風に揺られてざわめく寂しいところであるが、この美しい竹林もまた古都鎌倉にはよく似合う風景であると思う。
その途中にひっそりとある小さな祠が姫宮と呼ばれているが、この祠は一見するとどこにでもありそうな目立たない祠である。
これは口伝では大姫の墓であると伝えられている。
北条政子がここで大姫を供養したそうであるが、そのあまりの寂れっぷりが悲しい。
その横にある粟舟稲荷も、長らくこのままあるのであろう。
かつて、このあたりは入り江であった。粟を満載した廻船が出る港があったから粟舟山という地名になり、そのまま寺の山号になったそうである。
いま、この木曽義高と大姫の墓と伝承される塚と祠には、訪れる人もあまりなく歴史の彼方に忘れ去られようとしているようで、わずかな夏木立と草いきれだけが周囲を包み、より一層の寂しさを演出している。
いま、ここでひざまづいて鎌倉一と言われる悲恋の物語の主人公たちに手を合わせるとき、わずか十才あまりの子供が政争に巻き込まれた時代の悲しみと、大姫の慟哭が伝わってくるようで、ここにも戦乱の世を生き抜いた人たちの息遣いがにわかに思い出されてくるのである。