霊峰大山を仰ぎ見る伊勢原の里を、一気に原付で駆け抜けました。
このあたりは江戸をはじめとする関東近郊で流行していた大山詣に出かける人たちが歩く「大山道」が集まるところで、道端のところどころに見所のたえない楽しいところです。
そんな伊勢原市日向というところ、「藤野入口」というバス停のわきに、松の木などが植えられた、こんもりとした所があります。
一見すると築山にも古墳にも見えますが、ここは「駒つなぎ松」と呼ばれ、源頼朝が日向薬師を参詣するおり、乗っていた馬を降りてここにつないだという言い伝えがあります。
なお、現代植えられている松で3代目だということです。
ちょうど、このバス通りは「お通り坂」と呼ばれている坂です。
これも、源頼朝が大山を参詣するたびに通った道であることからついた名前だそうで、他にも源頼朝が馬を洗ったという沢は「洗水」(あろうず)と呼ばれているそうです。
建久5年(1194年)、源頼朝が47歳の頃、長女の大姫が病にかかります。
大姫が6歳のころ、源頼朝と対立しながら現在の長野県あたりを制していた木曽義仲を味方とするため、木曽義仲の息子である木曽義高と婚約させられます。
しかし、結局は木曽義仲は源範頼によって討たれてしまい、それに伴って木曽義高が処刑されてしまったために精神を病んでしまったといわれています。
このため、源頼朝は足繁く大山へ通い、日向薬師へ平癒祈願の巡礼を続けたとされています。
鎌倉将軍の一行ともなれば、それは目を見張るほどの威容と豪華絢爛さであった事でしょう。
このとき、源頼朝がここで馬を降り、ここに馬をつないで日向薬師まで歩いて行ったのだという事です。
先ほども書いたように、このバス通りは源頼朝が通った道であることから「お通り坂」と呼ばれており、また源頼朝が馬を洗ったと沢は「洗水」(あろうず)と呼ばれているそうです。
この駒つなぎ松からしばらく行くと、源頼朝が旅装を解いて身を清め、白装束に着替えた所が残されています。
衣裳を着替えたところから「衣裳場」といわれていたものが、現在はなまって「いしば」とよばれています。
病気にでもなれば神仏にすがるしかなかったこの時代。
源頼朝は八方手を尽くしましたが、結局は大姫は還らぬ人となります。
建久8年(1197年) 7月14日、享年20歳という若さでした。
現在、この大姫の墓とされる祠は、鎌倉市の中心部から離れた茂みの中にひっそりと残されています。
いま、夏の終わりの夕暮れの中、駒つなぎの松を静かに揺らす風にふかれて大山へ続く道を眺めているとき、かつて権勢を誇りつつも神仏にすがるしかなかった鎌倉将軍の悲壮ただよう後ろ姿がにわかによみがえるかのようで、ここにも時代の流れの哀れさというものを感じ取るのです。
【みうけんさんおススメの本もどうぞ】