境側にかかる今飯橋(いまいいはし)の東側、下飯田の交差点から北側へ進んでいくと、曹洞宗寺院である巨木山 東泉寺(こぼくさん とうせんじ)があります。
このお寺は再興されてからなお400年の歴史を持つ古刹で、徳川家の旗本であった筧(かけひ)家によって開かれたお寺です。
このお寺の本堂に合掌礼拝し、 その脇にひっそりと建っている薬師堂に目を向けました。
この日は特に事前予約したわけでもなく、お寺の方がご不在だったので致し方なしですが、扉は鍵がかけられて固く閉じられていました。
ただ、わずかに開いた扉の隙間から、お堂の中にて金色に輝く薬師如来さまの立像を拝観することができました。
この薬師如来像は、鎌倉期にこのあたりの「飯田郷」を治めていた地頭職、飯田五郎家義が信仰していたとされているもので、もともとは「薬師薮(やくしやぶ)」と呼ばれたところ、現在の下飯田町1371番地あたりに建立された薬師堂が始まりです。
飯田五郎家義は、かねてより薬師如来に深く帰依する信心深いひとでした。
鎌倉の二階堂にあった永福寺(廃寺)薬師堂の薬師如来を篤く信仰していましたが、自らが治める飯田の地には寺のひとつもなかった事を嘆き、この薬師如来像を納めた薬師堂を建立されたのだと伝えられています。
鎌倉の永福寺は、鎌倉に今も残る「二階堂」という地名の由来にもなった名刹です。
もともとは源頼朝が中尊寺の大長寿院にならって建立したもので、2階建ての本堂を中心として、阿弥陀堂や薬師堂を配していた規模の大きな寺院だったそうです。
「東泉寺薬師堂縁起」には、この薬師如来像にまつわる伝説が記載されています。
この縁起によれば、この薬師如来像は弘法大師が彫刻したものとされており、眼の病に対して実に霊験あらたかであるばかりか、拝むものに対して十種の幸福をもたらすものと信仰されていました。
ある日、この薬師如来を守り本尊として信心を欠かさなかった飯田三郎家能が出陣したき、どこからともなく眩い光が放たれて、夜をも昼とする明るさであったといいます。
これによって、飯田三郎家能に立ち向かうものは大いに恐れおののき、飯田三郎家能はよく武運を守られたということです。
その後、天正年間に筧助兵衛為春によって薬師堂は東泉寺境内に移転されましたが、眼の病はもとより、安産や育児に対しても霊験あらたかであったとして、連日お参りの人が絶えなかったという事です。
時代は降って明治30年(1897年)のこと、ある盗賊がこの薬師如来さまを盗んで逃げた事がありました。
しかし、この薬師如来さまの霊力あらたかなる事を知った盗人は、その大いなる仏罰におそれおののき、藤沢山の谷に置いて行ってしまったのです。
その場所は草深く、薬師如来様も倒されておかれたので誰からの目にも留まらないはずでしたが、数日後の夜遅くに近くの百姓が通りかかったところヤブの中に異様に光る物体があった事で気が付き、この薬師如来さまは無事に元の地に帰ることができたということです。
この近辺はもともと鎌倉みちが通る主要街道の脇で、交通の要衝でもあり、多くの人馬が往来したところです。
そのためか、今なお昔ながらの史跡が多く残されているところでもあります。
いま、ただ静寂が支配する東泉寺の境内を歩き、門の傍らにおわす地蔵菩薩さまに手を合わせるとき、かつて薬師如来に一心に帰依し、朝な夕なにこの薬師如来さまに手を合わせたひとりの武者の姿が思い起こされるようで、木々を揺らす風の音は遠くより聞こえてくる読経のようにも聞こえ、ここにも時の流れの遙かなるものを思い起こしたのです。
【みうけんさんおススメの本もどうぞ】