みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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役人の面子の為の悲劇 義民 原嶋源右衛門(東京都町田市)

JR横浜線長津田駅を出発し、町田駅方面にむかう右手には住宅街が綿々と広がり、そのランドマークのように聳えるのが町田市成瀬のクリーンセンターです。

そのクリーンセンターのほど近いところ、住宅街の中にひっそりと立っているのが「義民 原嶋源右衛門 供養碑」です。

  

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原嶋源右衛門(はらしまげんえもん)は、江戸期における成瀬村の庄屋でした。

この近辺は成瀬村字東光寺と呼ばれたところです。

 

もともと荒地であったこの地域を開墾し、苦労の末に新田へと作り替えた成瀬村民でしたが、それまで誰も見向きもしなかった荒れ地でも米を生み出す耕作地となってくると、隣の長津田村との帰属をめぐって諍いが始まります。

 

そこで長い時間を費やして長津田村との話し合いが続けられ、開発した新田の一部を長津田村に渡すことで和解を見ると、村の境界線に木炭を埋めて明確に境を決めて諍いは一件落着したのです。

 

しかし、村民が先頭に立っての紛争解決に待ったをかけたのが役人たちでした。

村人たちから話を聞き、どのような諍いが起き、どのような経緯で決着したかを詳細に取り調べた上で、とにかくこの争論の首謀者を探し出して処刑する事にしたのです。

 

諍いはすでに円満に解決しているのにもかかわらず、役人抜きの村人だけで勝手に境界線を引き、また村の年貢の配分量を変える協議をしたのが気に入らなかったのではないか、と言われています。

 

また、日本各地で新田開発が奨励されて荒地が次々と開墾されましたが、それに伴って全国で新田の権益をめぐって争いが起きていたことから、無用な争いに対する戒めもあったのかもしれません。

 

完全に「罪人ありき」の取り調べが進められると、村人たちの嘆願も取りあわれることもなく、庄屋の原嶋源右衛門は享保元年(1716年)に極刑に処せられました。

  

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これにより一家は断絶、すなわち一族みなが処刑されたのみならず家財も田畑も没収されてしまうという、実に厳しい刑だったようです。

 

これは、先ほども書いたように全国各地で発生している新田権益の争奪紛争を牽制するもので、「一罰百戒」、すなわち完全なる見せしめの処刑ともいえるべきものでした。

 

処刑の言い渡しの文言には「一郷一村に関わる事とは言え私事に繋がる曲事(ひがごと)、公儀(幕府)を証(たぶら)かすとは誠にもって不届き至極」とあります。

 

せっかく円満に和解したことも省みず、原線源右衛門ひとりにすべての罪をなすりつけて役人の面目を保ったもの、と原島源右衛門の屋敷跡とされている現地の説明看板では厳しく指弾されています。

 

また、この近くの小高い丘の上に、原嶋源右衛門が処刑されたところと言われるところが残されています。

道のかたわら、小さな塚のようになっているところに古びたお地蔵さまが建てられています。

  

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このお地蔵さまはすっかり崩れてしまって原型を留めず、もはやお地蔵さまであったかどうかすら定かではありません。

 

かろうじて首だけが新しくすげ替えられており、そのお顔がお地蔵さまのようであるからお地蔵さまなのだろうか、という推測しかできないといった方が良いでしょう。

  

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もともと、「がけやま」と呼ばれていたこの地で、村民たちが涙を流して助命嘆願するのも聞き届けられず、原嶋源右衛門は討たれました。

時は享保元年(1716年)、秋も深まった10月15日のことです。

 

15人ほど集まった役人の手により家族共々打ち首となり、涙を流して見守っていた村民たちの手によって荼毘に付されたといいます。

 

村民たちは3日間に渡って火を焚き続けたので、その煤と涙で誰彼の区別もなくなったと言われています。

 

村のために罪を一身に背負い、処刑されていった原嶋源右衛門に対する念仏はやむことがなく、三日三晩にわたって村人たちが合唱号泣したさまが目に浮かんでくるかのようです。

 

その後、原嶋源右衛門と一家の霊を慰めたいと浄財が集められてこの石仏が建立されまたのだといいます。


この台座には寄進者の名が刻まれていますが、その筆は東雲寺の第八代住職である考山上人によるものだということです。

 

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いま、秋も深まった涼しげな風が吹くなかで、周囲の住宅街から切り離されたような静かで寂しげな慰霊碑の前にひざまづくとき、落ち葉だけが風に揺らされて物悲し気な音を聞かせています。

 

まるで、極刑に処されていく原嶋家のひとびとの空を切り裂くような断末魔の声と、それを取り巻き眺めるしかなかった当時の村民たちのすすり泣く声が現代によみがえったかのようで感慨もひとしおです。

 

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