相模原の街を原付で駆け抜けていくと、どうしても突き当たる壁があります。
JR横浜線の線路と、米軍の相模総合補給廠です。
このどちらもが、一度突き当たってしまうと乗り越えるためにはかなりの距離を迂回しなければならないので、かなり厄介な存在です。
その、相模総合補給廠の北側に面したところに裏門がありますが、この周囲にかつて「おひめばたけ」、俗に「おひめさま」と呼ばれるところがありました。
現在はすっかり開発されて住宅街になっていますが、かつては平地の上にこんもりとした高台があり、その上に畑と、古い藤の木が茂る「藤ノ森」というところがあり、小さな祠が残されていたそうです。
また、その高台には御所之入横穴古墳というものもあり、ずいぶんと古くから人々が暮らしてきたところだったことがわかります。
ここに出てくる「御所之入」(ごしょのいり)とは、史料「相模原の地名」(原義範著)などによれば、和田義盛の一族であった横山党の有力者、矢部氏の居舘のあとであるとか、秋元但馬守邸の跡であったとか言われているようです。
言い伝えによれば、いつの時代かはハッキリしないものの、行く当てもなく寂しい旅を続けていた美しいお姫さまがいたそうです。
戦で敗れたのか、城を追われたのか、どのような事情かは分からないものの、見るからに貴人であることが一目で分かるほどの身なりと美しさでしたが、長旅の心労がたたって病に倒れ、ついにこの地で還らぬ人となったという事です。
このお姫さまを哀れに思った村人たちは小さな祠を立てて、お姫さまをねんごろに供養しました。その祠も昭和の中頃までは残っていたそうですが、宅地開発の波に押されて姿を消してしまったそうです。
また、このお姫さまには12人の家来がついていました。
しかし、お姫さまを看取ったあとはもう旅を続ける必要もナシと12軒の家を建て、その名も十二軒村という小さな集落を作ったものの、もともとよそ者であったために地域の輪に入ることもかなわず、現在ではすっかり断絶してしまったということです。
現在、その高台はすっかり削られ、藤の木も切られてしまい往時の面影は全く残されていませんが、目の前に広がる広大な補給廠の上に広がる青空は、昔とすこしもかわることなくあり続け、ここで非業の死を遂げた美しい姫君の思い出を今に伝えながら、ここにはるかなる時の流れを刻一刻と刻み続けているかのようです。
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