ちょっと前置きが長くなりますが、今回のお話と深くかかわっているので、よろしかったらお読みください。
むかし昔のお話です。
現在でいう町田市小山田の「小山田荘」というところで、秩父氏の傍流である小山田氏という一族が興りました。
その祖である小山田有重は、もともとは平家に仕えていたものの、時が源氏の世となってからは東国へと戻って源頼朝の配下となり、鎌倉時代初期に大いに繁栄しました。
しかし、源頼朝が亡くなるや鎌倉幕府内は次第に家人同士の対立が激しくなり、建保元年に勃発した和田合戦によりとうとう没落してしまいます。
時代は流れて戦国時代、子孫は現在の山梨県都留市あたりに拠点を移し、甲斐守護の武田氏と姻戚関係を結ぶばかりか広大な領域を治めて栄え、享禄5年(1532年)には小山田越中守信有が居館を中津森から谷村に移しています。
しかし、武田信玄が亡くなり嫡男の武田勝頼の代になると、武田家は次第に統率を失って敗走を重ねるようになり、とうとう天正10年(1582年)3月、織田信長の先鋒を務めた滝川一益によって武田勝頼は追われる身となります。
ここで小山田信茂をはじめとする小山田氏も武田家を見限って裏切りますが、姻戚関係まで結んだ相手を裏切った心象ははなはだ悪く、織田軍の残党狩りによって徹底的に捕縛・斬首され、ここに小田山氏は没落するのです。
ここまでが歴史で、ここからは言い伝えとなります。
場所は相模原市に移ります。
小山田氏の武将であり、敗走のさなかに狙撃され絶命した小山田八佐衛門行村の墓標が相模原市にあるのは、以前に紹介した通りです。
また、この墓から少し行ったところにジジイ宮、バァバァ宮という小さな祠が残されています。
これらは山の谷あいに残され、また山村の一角に祀られる小さな祠ですが、これらもまごうことなき小山田氏の哀話を今に伝える痕跡だといいます。
まずはジジイ宮を訪ねました。ジジイ宮はジイジ宮、ジイジイ宮ともいうそうです。
愛車シグナスを走らせて、山ふかい林道のような道をどこまでも走っていきます。
とちゅう、神之川キャンプ場の入り口のわきに脇道にそれるような小道への入り口がありますが、これがジジイ宮への入り口となっています。
この脇道の坂を10メートルほど登ると、見えてくる小さな祠がジジイ宮です。
比較的新しい祠には土嚢で区画が区切られ、その背後には「神野川ヒュッテ保存会・折花姫講中」による詳細な説明看板が出されています。なんとも親切なことです。
この看板によれば、ここから袖平山に連なる尾根を可愛尾根(カワイ尾根)というそうです。
武田勝頼が滅亡したさい、武田24将のひとりであった小山田信茂の一族のひとり、小山田六左ェ門は大月の岩殿城より小田原北条氏をたよって落ちのびる途上、現在の焼山登山口にあたる青野原で六左ェ門は討たれ、今でも河原石からなる小山田六左ェ門の碑がある、と記されています。
これを見る限りでは、どうやら六左衛門と八左衛門がごっちゃになってしまっているような気がします。
ちなみに六左衛門というのは、 小山田茂誠(あるいは重誠、どちらもよみはしげまさ)といって武田家家臣にして内山城の城主、小山田昌行の子で最終的には正室の村松殿とともに落ち延びて岩櫃城の真田昌幸に保護された、と言われています(諸説あり)。
八左衛門というのは、 小山田行村のほうで、こちらは道志川ぞいで狙撃されて絶命し、自然石で作られたお墓があります。
ここに登場してくるのは、いったいどちらが正しいのか。
なにぶんにも数百年も昔の出来事、そして武田勝頼や織田信長のような研究しつくされた人ではなく、家臣のそのまた一族という人ですから、史料にもとぼしいのです。
極めつけは、ここに登場する人物もお話も、あくまでも「史実」ではなく地元の方々で代々語り継がれてきた、という「民話」なのです。
このお話に出てくるのが、小山田六左衛門なのか、八左衛門なのか。
みうけんには正確な事は分かりませんので、ここからは「小山田某」とさせて頂きたいと思います。
と、言うわけで。
小山田某が落ち延びてくる時に、小山田某は背後から狙撃されて絶命しました。
この小山田某の墓は、今でも青野原にあります。
そして、この小山田某の供の一行にはジジイとババアがいました。
ジジイは折花姫の供をしつつ逃げているさなか、少しでも時間をかせごうと単身で敵に立ち向かったものの、あえなく討ち捨てられて絶命し、それを地元の人が哀れに思ってねんごろに祀ったのがこのジジイ宮である、という事なのです。
さて、ジジイ宮を参拝し終えてここから少し離れたところ、林道をふたたび2.3キロほど北西にいくと、音久和の集落の片隅にあるのがバァバァ宮です。
こちらも小さな祠で、よく目を凝らさなければ見落としてしまうようなものです。
さきほどのジジイ宮と同じように、こちらにも丁寧な説明看板が掲げられています。
ババァ宮とも、ウバ神ともいうようです。
この時は地元のかたがお掃除をされていたので、少しお話を頂くことが出来ました。
大まかな話は看板と同じですが、その地元の方のお話によればこのバァバァ宮に祀られているのは「姫様」の乳母だった人物。
その姫様の身代わりとなり、姫様の着物をまとって姫様が逃げるふりをして、狙撃されてここに絶命したということです。
その地元の方は50年ほど前に、ここに嫁入りしてきたという女性でした。
折に触れてこの姫様とバァバァ宮の事を聞かされていた、との事でした。
よく見てみると、ジジイ宮とバァバァ宮は形状が少し異なっています。
この祠がいつ頃建てられたのかは定かではありません。
小さな祠ではありますが、お神酒までお供えされてよくお手入れされているなと思います。
音久和の集落はとても静かなところです。
聞こえてくるものと言えば遠く道志川のせせらぎと小鳥の声といったくらいでしょうか。
ここを通り抜ける車もほとんどなく、もう少し西に行けば山梨県といったところです。
いまから数百年の昔、このあたりでは大規模な戦闘の末に度重なる残党狩りが行われ、あるものは逃げ惑い、あるものは討ち捨てられ、またある者は落ち武者狩りの鍬に斬られて、そしてあきらめて腹を切るもの、お互いに差し違えるもの・・・
数々の悲話があったことでしょう。
主たる歴史書には主たる歴史上の人物のことがたくさん書かれているものですが、その周辺に生きた無名の人たちのことを記した書物というのは多くはなく、それゆえにこの物語に出てきたジイジとバァバァなどはその名前すらも伝わっていないという有様です。
このジイジとバァバァのお話がどれくらい史実に基づいたものか、調べるすべもありません。
しかし、この悲しくも哀れなる哀話はずっと昔からこの地で語り継がれ、戦国の世に生きた者たちの悲哀を今に伝えているのです。
さて、ではジイジとバァバァが殺されてしまったいま、そのジイジとバァバァが命を賭して守り抜いたと言われている「折花姫」なる人物は、どのような結末をたどるのでしょうか。
この続きは次の記事にまとめたいと思います。