戦国の武将、小山田氏のについてのお話もいよいよ最終話となりました。
今回はジィジ宮から2キロほど離れたところにある、 折花神社という神社です。
この神社は蛇のように複雑に蛇行する道志川の、迫り出すようにした川岸の上にひっそりと建っている無人の神社です。
この神社の祭神は折花姫とよばれている人物で、落ち延びるさなかに狙撃された小山田氏の武将、小山田某(小山田「某」については「小山田氏の悲話シリーズ(2)ジジイ宮とバァバァ宮(相模原市)」を参照)の娘であったとされる人物。
たいへん美しい姫君だったそうです。
小山田某は狙撃され、供の老爺(ジジイ)は時間を稼ぐために敵に立ち向かい、討ち取られて絶命。その老爺を祀ったのがジジイ宮です。
また、乳母でありずっと姫の成長を見守ってきた老婆(バァバァ)は、姫の身代わりになろうと姫の着物をまとって山中を逃げ、小山田某のように狙撃をうけて絶命。その老婆を祀ったのがバァバァ宮である、というのが前回までの流れでした。
では、一人のこされた折花姫はどうなったのでしょう。
これも、「小山田氏の悲話シリーズ(2)ジジイ宮とバァバァ宮(相模原市)」でお話をくださった地元の方から教えて頂きました。
供をあいついで失くし、一人となった折花姫はふだんは歩くことのない林の中を駆け抜けて、ある時は大木の陰に隠れながら逃げ惑います。
もはや、自分がどこにいてどこに向かっているのかも分からず、ただただ前に向かって進むだけの逃避行でした。
狙撃された父、身代わりになって死んだジジイ、やはり身代わりになって死んだバァバァへのせめてもの償いと一心不乱に念仏を唱えつつ、全身泥まみれになって山道を駆け抜けたことでしょう。
しかし、歩いた事のない山道を逃げる姫と、山岳戦に長けた軍勢との勝負は最初から見えていました。折花姫は瞬く間に追っ手に包囲され、もう逃げることはかなわぬとみるや戦国女性のたしなみとして持っていた懐剣で、自らの喉を突いて壮絶な最期を遂げたのだといいます。
当時の女性にとって、小型の日本刀である懐剣は護り刀(まもりがたな)、懐刀(ふところがたな)ともいう護身具でもあり、敵に襲われた時の自害用の剣でもありました。
他にも、この折花姫伝説はいくつかのパターンがあり定説はないそうです。
あくまでも地元の方に聞いた話では「敵に囲まれて自害した」というもので、他にはさらに南方の長者舎という里に隠れ住んだという説もあるそうです。
戦国時代、敗者の運命というものは悲惨だったといいます。
各地では捕虜が奴隷として売り買いされ、道という道には首を取られた死体が転がったといいます。決して大河ドラマのイケメン俳優がカッコよく切りあいをする、そんな世界ではなかったといいますから、折花姫もまた捕虜に甘んじることをよしとしなかったのでしょう。
後日、この折花姫の哀話を聞いた里人たちによってつくられたのが折花宮、現在の折花神社であり、この脇にかかる橋には折花橋という名がつけられています。
このように、この折花姫伝説はこの地域にも地名を多く残し、今なお里人たちの心の中に生き続けているのです。
黒沢明監督の「七人の侍」では、戦国時代に野武士の襲来におびえる農民と、その農民が裏を返せば落ち武者狩りをして多くの侍を殺していたという話が描かれています。
また、敗者となったものは奴隷として世界中に売られ、その末路は悲惨だったともいいます。特にキリシタン大名は奴隷を捕まえては南蛮商船に売り渡し、その仲介をしたのがキリスト教宣教師だったといいます。
それに憤慨したのが豊臣秀吉と徳川家康で、その怒りは後々の強硬なる鎖国政策とキリシタン禁令につながったほどです。
このような話は、実際に全国のいろいろな所で行われていたのでしょう。
折花姫が自らの首をかき切ってまで自害したのも、分かる気がします。
時代は流れて平成から令和へと変わった現代、この神之川の清流はあくまでも清く、ところどころ区切られて平和な釣り堀へと姿を変えて、やがて道志川へと注いでいきます。
今からそう遠くない戦国のむかし、この地を一人の姫君が逃げ惑い、敵に囲まれてもはやこれまでと懐剣で喉を突くという壮絶な死に方をしたということ、そしてその陰には戦国時代に横行していた人身売買と奴隷化があまりにひどかったこと。
その歴史の中、あまりにも哀れな最期を遂げた折花姫の無念と覚悟が、今なお神之
川の清流の中にしっかりと刻まれているのです。