みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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悲運の皇子 護良親王の最期・上(横浜市戸塚区・西区)

交通量も多い国道1号線の中でも、戸塚区の不動坂交差点は渋滞の名所とも揶揄されるところである。

 

そこから少しだけ脇道に入ると、穏やかな空気の流れる閑静な新興住宅地が広がっており、さらにその片隅の一角にはうっそうと生い茂る木立の中に、今は涸れてしまった古井戸を残している所がある。

 

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そこには「護良親王 首洗井戸」と陰刻された昭和45年(1970年)建立の石碑が立ち、その前に残された古井戸はすっかり涸れて井戸桁のみが残されている。

もちろん、井戸の水をくみ出すつるべなども失われて、今は金網が張られて人が落ちないようにはなっているが、中はすっかり土で埋まってしまって、ひざ丈ほどの深さしかない。

 

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この井戸は、もうすっかり井戸としての役目は果たしていないものの、その脇に建てられた石碑の文字通り、こここそが非業の死を遂げた護良親王(もりよししんのう)の首級を洗い清めたという伝説をいまに伝える井戸なのである。

 

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護良親王は、「もりよししんのう」とも「もりながしんのう」とも読み、延慶元年(1308年)に後の後醍醐天皇の皇子として出生した。

 

6歳の頃に「尊雲法親王」として天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入ったのちに正中2年(1325年)には若くして門跡を継承して門主となり、その後天台座主を務めることになるが、「太平記」の記述に従えば、大変な武芸好きであり日頃から鍛練を欠かせぬ珍しい座主であったという。

 

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元弘元年(1331年)に後醍醐天皇鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすや還俗して参戦し、各地を転々としながら戦い続け、ようやく鎌倉幕府を打倒せしめるが、のちの室町幕府初代将軍となる足利尊氏とは険悪な仲となっていく。

 

その後、足利尊氏ばかりか実の父である後醍醐天皇とまでも反目する事になり、尊氏を暗殺すべく僧兵に辻斬りをさせたりもしたという。

これが後醍醐天皇の逆鱗に触れて征夷大将軍を解任されるや、建武元年(1334年)には皇位簒奪を企てたとの罪状により囚われの身となる。

 

今では皇位簒奪に関してはいわれのない濡れ衣とされているが、これを機に失脚し、鎌倉で幽閉されたのちに殺害されてしまうのである。

 

この時、親王の御首を側女が密かに持ち出して洗い清めたのがこの首洗の井戸であるとされ、明るい住宅街の中にありながらここだけは鬱蒼とした木々が茂って昼なお薄暗く、その陰鬱なる雰囲気を今に伝えているのである。

 

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また、そのすぐ脇にある「四つ杭跡」は、護良親王の首級を祀るべく四本の杭を打って祀壇をこしらえた跡であるとされている。

現代では「首級を祀った」とされているが、実際は首をさらして見せ物にするための晒し台があったのではないかと個人的には思ってしまう。

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その後、その首級は近くの丘の上に運ばれて埋められた。

宮内庁の公式見解では、護良親王の首級は討ち取られたのちに現在の鎌倉宮に晒されたが、そのあまりにもすさまじい形相から、鎌倉に打ち捨てられて理智光寺(現在は廃寺)に埋葬されたとされ、理智光寺跡地には護良親王の墓もあるが、この戸塚あたりでは古くからこの王子神社があるところが護良親王首塚であったとされてきた。


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護良親王が弑せられ給うた時、侍者、その御首を奉じて当地四抗の勤皇の郷土斉藤氏を頼り、ひそかに現本殿の位置に埋葬したと伝える。
親王の御首を洗い清めた井戸を「首洗(くびあらい)井戸」と称し神社付近にある。
井戸の傍の大杉は伐採しても不思議に新芽を生じたが、昭和35年頃焼損した。
御首を一時隠し奉った所を「御墓」といい老松があったが、これも明治末年落雷に焼損した。
四抗とは御首を洗う為の四本杭の簀の子の意、或いは鎌倉街道上で鎌倉から山を四つ越えた(よつごえ)の転訛という。
社殿は当初西北に向いていたが東海道の往来に支障ありとて現在の東南向きに変えたという。

神奈川県神社庁HPより)

 

この日は平日の昼間だったから、他に参拝者もいないようであった。

鎮守の森の木かげが涼しげで、静かな神社である。ただ聞こえるのは蝉しぐれのみで、遠くの国道を通る車の音すら聞こえることはない。

静寂。ただその一言である。


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この拝殿の奥、本殿がある所に護良親王の首級が埋められたのだという。

ここはもともと、護良親王首塚であったのだという言い伝えがあり、これが後日神社になったもので、その立地などから鑑みて神社そのものの創建年代も古い物であろう。


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拝殿を通して2礼2拍手1礼。

見た感じはどこにでもある、ごく普通の神社である。

この静かで清浄な、しかしてどこか陰鬱な空気の流れるこの神社が、そのような悲しい伝説を秘めているとは意外なほどであり、ここにも隠された歴史の奥深さを垣間見るのである。


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神社拝殿のその脇には、古びた切り株が残されており、だれが見てもただの古ぼけた切り株にしか見えないのであるが、その切株には風化から守るべくか、立派な屋根が据え付けられているのが見て取れる。


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これがただの切株かと思えばそうでもなく、「御首お鎮め松の根」という松の巨木の根であるという。この切株にも、「御首お鎮め松の根」の看板以外は何の説明もない。


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また、この神社とは関係ないものの護良親王の乳母が親王を慕って鎌倉まで赴くも、そこで親王の最期を知らされて海に身を投げたとの伝承がある。

 

乳母の遺体は、現在の横浜の野毛浦に流れ着き、海上の岩に引っ掛かっていたという。この岩は「姥岩」と呼ばれるようになり、そこに乳母の霊が安産・子育ての神「姥姫」として祀られたが、現在では埋め立てにより「姥岩」はすでになく、「姥姫」は伊勢山皇大神宮境内の杵築宮に合祀されているという。

 

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鎌倉幕府打倒の立役者とされて大功を立てながら、いわれのない濡れ衣によって亡き者とされた悲運の武将・護良親王

 

時は流れて明治の文明開化のあと、護良親王が幽閉された鎌倉の東光寺跡に親王の霊を弔うために鎌倉宮が造営された。

次回ではその鎌倉宮を訪れることとする。

 

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