綾瀬市の落合というところは、ちょうど小田急線と相鉄線の線路に挟まれるような地理関係のところで、どの駅からもだいぶ離れている為か、今なお農村風景を色濃く残すところです。
そのため、早春ともなれば数えきれないほどのスズメが群れをなして餌を追い求め、遠くには秀麗富士を眺める実におだやかなところです。
現在、落合というところ東海道新幹線の線路を挟んで落合北と落合南に分かれていますが、そのうちの落合北の畑の片隅に、歴史的にも有名な葛原親王の塚があるというお話を頂いたのでさっそく訪れてみました。
この、葛原親王(かずらわらしんのう)という人物は、今からさかのぼる事1200年も昔の奈良時代末期から平安時代の初期に活躍した人物で、桓武天皇の皇子にあたる人物です。
源頼朝が幕府を開く以前、神奈川県の鎌倉近辺は「鎌倉党」が支配するところでした。
その鎌倉党というのはその成立などに諸説あって一定していないものの、桓武天皇の子孫である葛原親王から平高望王へと下り、村岡五郎良文を経て過去にも紹介した鎌倉権五郎景政につながっていく説から、葛原親王は桓武平氏の祖という研究もあります。
このうち、大庭あたりに分家した子孫が大庭氏を、梶原に分家した子孫が梶原氏を、俣野にいる子孫が俣野氏を名乗り、彼らが鎌倉幕府の成立する以前には鎌倉党として鎌倉の地を治めていたのですから、実は神奈川県というのは葛原親王ともゆかりが深い土地柄なのだという事です。
葛原親王は、当時の皇族から出た人の中でも慎み深い性格であり、その貴をかさにきることも奢りたかぶることもなく、その仁徳は民たちからも大いに親しまれたといいます。
考古学上、間違いないとされている墓所と邸宅の跡地は京都府乙訓郡大山崎町だそうですが、あくまでも民話の域を出ないものの、葛原親王の東国巡行の際に残された逸話は神奈川県にもいくつかあり、ここ綾瀬市にも「塚」があるというのですから驚きです。
そういえば、ずいぶん前に紹介しましたが、横浜市栄区には葛原親王の妃と言い伝えられている「照玉姫」という女性のもの、とされる小さな塚も残されています。
この「照玉姫」という女性のものとされる塚も、お世辞にも立派と言えるようなものではなく、わざわざ教えてもらえなければ決して分からないようなものです。
ここ綾瀬市の葛原親王の塚とされるものも「これは本当に塚なのか?」と思ってしまうような小ささで、その頂に咲くブタクサがどこかしら寂し気な哀れさを感じさせます。
この塚は、このあたりでは古くから「皇子塚」と呼ばれて大切にされてきました。
昔はたいそう立派な塚だったそうで、金できたカンザシが出土したこともあるそうです。
ただ、あくまでも言い伝えであり、この塚が本当に葛原親王の塚であるのかどうか、という確証はまったくないそうです。
この綾瀬市、藤沢市などには他にも葛原親王と皇族にまつわる地名が残されています。
藤沢市葛原は葛原親王がこの地におられたので高倉郡葛原村となったと言われています。
また、その後裔である長田武蔵守平忠望がこの地の領主となったさいに、先祖である葛原親王を鎮守として崇めていたという話もあるようです。
いっぽう、藤沢市御所見(ごしょみ)も長田武蔵守平忠望がこの地に館を構えまして垂木(たるき)御所と呼ばれますが、その御所が菖蒲沢の塚より見渡す事ができたのでこの塚を御所見塚と呼ばれるようになった、という言い伝えがあります。
どちらにしても、葛原親王が遠く京の都を離れ、東国へと下向されてここ神奈川県に多くの足跡を残されたという伝説が数多く残されているのは間違いのないことのようです。
それらの末裔は数百年にわたって活躍し、やがて源頼朝を助けて鎌倉幕府成立の大きな立役者となるのです。
いま、この小さな塚に向き合っていると、塚の背後にうっすらと見える富士山が美しく、ここに数百年の時の流れを思い起こさせてくれます。
この塚が葛原親王の塚である、というのはあくまでも口伝にすぎず、民話の域をでないものですが、ここにもいにしへの人たちが暮らしてきた記憶が秘められていることを思うとき、歴史と民話というものの奥深さをじんわりと実感するのです。