七沢の里から伊勢原市へと入り、日向川に沿って樹木うっそうと茂る細い道を原付でどこまでも登っていきます。
このあたりは夏でも木立を通り抜ける風が涼しく、原付を流すのに気持ちのいいところです。
左手に見える浄発願寺を眺めて登っていくと、やがて日向渓谷キャンプ場へと入っていく入り口が見えてきて、そこには「史跡 (伝)大友皇子の陵墓 二代目・不老松」と書かれた看板が掲げられているのが見えてきます。
ここからは足元が悪いので、入り口に原付を停めて歩くことにしました。
こういう時に気軽に停められるのも原付の強みでもあると思います。
わが蔵書である「神奈川の郷土美探訪」 (写真で綴る文化シリーズ・松浦 豊著)によれば、このあたりはもともと「御所の人」と呼ぶ小字だったそうです。
ここから入る道は近くにある石雲寺の旧参道であり、この先を行くと現在はキャンプ場になっているあたりが石雲寺の大門だったところと伝えています。
その石雲寺の大門があったところ、今では草むらのようになっているところに、大友皇子の御陵と伝える古廟塚が今でも残されています。
この古廟塚は、大友皇子の近従の子孫が建立したという言い伝えが残されています。
塚の上に立つ石造りの五重塔は現在はレプリカが置かれています。
これは大友皇子の古廟塚であることは先にも記載しましたが、大友皇子というのはどのような人だったのでしょうか。
大友皇子は、日本の第39代天皇である弘文天皇(こうぶんてんのう)をさします。
大化4年(648)から天武天皇元年(672年)、すなわち飛鳥時代の人になります。
今から1400年も昔の人で、もともとは近畿地方の人でした。
大友皇子は天智天皇の太子にあたりますが、天智天皇が崩御したのちに跡を継ぎ、それをうけて叔父である大海人皇子(天智天皇の弟、後の天武天皇)は跡継ぎの座を放棄して出家します。
しかし、結局大海人皇子は「壬申の乱」というクーデターを起こしたことにより大友皇子は討たれてしまうのです。
宮内庁が定める大友皇子の陵墓は滋賀県大津市御陵町にある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)と定められていますが、全国に「大友皇子落人説」があり、大友皇子の陵墓とされる墓が全国に残されています。
ここ伊勢原の陵墓も、そのひとつなのです。
現在ここにある五重塔はレプリカですが、もともとあった五重塔は鎌倉時代のものとされています。
その周囲には当時のものではないかと推測できる五輪塔が現在も残されていますが、こちらについては誰のお墓であるのかの詳細な記録は残されていません。
きれいな形で残されているものの、完全に苔むして花を手向ける人もなく、ここに数百年という年月の流れを感じさせます。
この五重塔や五輪塔が、私たちが生まれるずっと前から、こうしてここにたたずんで居た事に感慨を覚えます。
さて、ここの五重塔はレプリカであるため、本物が置かれているという曹洞宗寺院、雨降山 石雲寺(うこうざん せきうんじ)へと向かいました。
このお寺の創建は古く、養老2年(718年)に 華厳法師(けごんほうし)による開創だと伝わっています。
昔、壬申の乱(672年)に敗れた大友皇子が近江国から落ち延びでこの地で亡くなり、 従者も殉死したという話を聞かされた華厳法師が哀れに思い、精舎を建てて大友皇子の菩提を弔ったのが起源だそうです。
皇子の墓所は当初、述言により松を植えただけだったようですが、鎌倉時代になって従者の子孫が石で五重の塔を建立したと伝えられます。
このお寺の境内に移されて綺麗に整備された五重塔は、すぐに見つけることができました。
高さは1.75メートルの五層の塔で、方形の基壇上には基礎、軸部 (塔身)、屋根は幾重にも積み上げる形式をとったものです。
頂上には相輪をのせる形式であるはずが相輪は失われ、現在は代わりに五輪塔の空輪と風輪が載せられています。
このような多重塔は、屋根を重ねる数によって三重、五重、七重、九重、十三重などとあります。これらはすべて割り切ることができません。
かつての日本には割り切ることができない奇数に対して無限の信仰というものがあり、しかもその数が大きければ大きいほど、その功徳も大きいとされていました。
そのために全国に多重塔が作られましたがその形も階数も様々です。
この石雲寺に残された多多重塔は鎌倉時代、これといった精密機械もなかった時代に作られたものですが、その像容は整然として美しく、どっしりと安定感があり、質実剛健を旨とした鎌倉時代の美意識をよく表していると思います。
現在、石雲寺に移された五重塔は綺麗に磨かれて新しいもののようにも見えますが、かつてはうっそうとした山林の中に眠るようにしてあり、時折心ある人が訪れては先祖の菩提を弔っていた姿が目に浮かんでくるようです。