みうけんの個人的な感覚ですが、神奈川県というところは中央に相模川が流れ、綺麗に東西に分断されていると思います。
その東を県東、西を県西と考えています。
(行政的にはもっと違う基準で分けているかもしれませんが)
その神奈川県西部、すなわち相模川から西側のなかで、本厚木、橋本、小田原に並んで大きく発展したのが平塚市というところです。
この平塚市という地名の由来となったところが、平塚駅から西側へ1キロほど行ったところ、要法寺の脇にある「平塚の塚緑地」に残されているのです。
門の脇には石柱に「平塚の塚緑地」と陰刻され、その背後にはこんもりとした塚のような築山がいくつか見られます。
このうちどの塚が最近になって作られた築山で、どの塚がもともとある塚なのか、それとも全てが塚であるのかは見た目ではハッキリ分からなくなってしまっていますので、そのあたりの説明板も欲しいところです。
この「平塚の塚」に関しましては、江戸後期に編纂された一代歴史書である「新編相模国風土記稿」の「平塚宿」の項において、以下のように記載されています。
平塚宿
現地の人が言うには、むかし高見王(桓武天皇の三代孫)の子である政子が東国に下向し天安元年(857)二月二五日に没した。
その棺をここに埋め、ひとつの塚を築いて目印とした。今は要法寺境内にある。
その塚は上が平らだったので、この地名がおこったという。云々
天安元年、西暦857年といえばすでに古墳時代ではないのですが、当時は戦乱が全国で頻発していた時期であり、また旅人の行き倒れなども多く、各地で死者を弔うための塚が築かれたことでしょう。
また、これと同じ内容を紹介している案内看板には「この事から平塚の歴史の古さがわかります」と記載されています。
平塚の語源となった塚に限らず、古墳時代の古墳などは頂上部が平らになっているのが普通です。
しかし、この時代に平塚とわざわざ呼ばれるようになったと言うことは、それだけ丸い形の塚が多くなり、平らな塚が珍しくなったという事でしょう。
ここにも、塚や古墳というものを研究することの奥深さを思い知ります。
塚というものは、もちろん死者を埋葬するためのものが多く、その例は全国にいくらでも残されています。
しかし、時代が下ると一里塚などのように道しるべや目印としても活用されるようになります。
この平塚の地名の元となった塚も、もともとは墓として築かれながら、そのまま地名としても定着した良い例なのかもしれません。
このような地名の由来というものを考えるとき、そこにもかつての人々の営みと暮らし、そして生きていく上でのさまざまな思いが詰め込まれていることに、またいっそうの感慨を覚えるのです。
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