日本全国の伝説に「七人塚」というものがあります。
三人塚、五人塚、八人塚などその人数も様々ですが、だいたいは戦で非業の死を遂げたさむらいを埋めた塚であるか、旅の途中で行き倒れになった人を埋めた塚か、というのが多いようです。
ここ綾瀬市吉岡にも七人塚の伝説というものがありますよ、とさるご住職から教えて頂きました。
その七人塚というものは「えんこら坂」という坂を登ったところにあるそうです。
そのご住職は子供の頃(60年も昔)に行ったことがあるという事で、さっそくえんこら坂の場所を聞いて、なんと手書きの地図まで下さったので、さっそく訪ねてみました。
目久尻川沿いの養鶏場の前の細い道を入ると、右手に茂みが見えてきます。
その中に入っていく細い坂がえんこら坂の名残だそうですが、この道が江戸時代のままの姿であるかどうかは、ご住職もご存知ないようです。
無理もありませんね。
時はさかのぼって江戸時代の中頃の話ですが、この近辺に住んでは箸や茶碗を作って売る職人の一家が住んでいたそうです。
ある日、その材料とするのに適当な木材が手に入らなくなってしまい、困り果てた挙句に幕府の直轄する「御用林」の杉の木を切ってしまいました。
夜陰にまぎれ、一本くらいなら分からないだろうと思って切り倒した1本ですが、そういう時に限ってどこかで誰かが見ているものでしょうか。
たちまち事は露見し、この職人は捕らえられてしまいます。
今となってはたかが木の1本でしょうが、当時の御用林の木は厳しく管理されており、木に瑕つければ首が飛んだという時代です。
また、今とは違って刑罰もずっと厳しかった時代ですから、連座といって周囲の人間までもが責任を取らされたのだといいます。
そして、この職人の罪は一家全員の罪であるとして、家族7人が縄にかけられてしまったのです。
その際、縄につながれて刑場に引かれていく時に、この坂を通ったことから「えんこら坂」という名がついたのだそうです。
村人たちはあまりにも哀れに思い、そして罪が重すぎると思ったのでしょう。
貧しい職人の一家が食べていくために仕方なくやったこと、どうにか罪の軽減をお願いしましたがとても取り合ってもらえず、どうにか口添えをしてもらおうと住職に近くの済運寺まで行って助命を嘆願してもらえないか、と掛け合いに行きました。
今も残る吉岡山 済運寺は江戸幕府3代将軍であった徳川家光の乳母であった春日局の帰依した格式のある寺で、春日局ゆかりの茶臼や茶釜が寺宝として残されているなど徳川家とゆかりが深く、そこに何とか光明を見出そうとしたのかもしれません。
しかし、住職は運悪く旅に出ていたため不在で、慌てて呼び戻したものの時はすでに遅く、哀れな貧しい職人の一家は刑場の露と消えたのです。
この7人を哀れに思った村人たちは、その亡骸をねんごろに葬り、そこを塚としました。これが今に伝わる7人塚の伝説だという事です。
さっそく坂を登ってみましたが、その場所は綺麗に整地されて知的障害者の皆さんが暮らすグループホームになっていました。
かつて、ここにこんもりとした塚があったのかも知れませんが、今となっては知る由もありません。
あまりウロウロしても不審者確定してしまうので、早々に引き返しました。
いま登ってきた坂道は薄暗く、足場も悪くて、こんなところを縄でつながれて登っていくその心境たるやいかばかりか、ともはや伝説となった哀れな7人に思いを馳せたのは言うまでもありません。
今となっては塚もなく、史料にもなく、あくまでも伝聞だけが頼りの旅でした。
しかし、これも民話の一つとして確かに語り継がれた歴史の中の悲話であるならば、決して無駄足ではなかなったな、と思います。
いま、風に吹かれた木々の梢のこすれる音だけが聞こえる寂しい林の中を一人歩くとき、まるで向こうから縄につながれ、うなだれた家族たちが役人に引かれて登ってくる光景が目に浮かぶようで、ここにも在りし日の悲しい記憶というものが俄かに思い出されたのです。