京浜急行線は県立大学駅の下のガードをくぐり、シャッターばかりの商店街の坂を上っていきます。この坂はもともと富士見町通りと呼ばれていました。
100メートルほど坂を登っていくと、細い道に左折していきます。
ここからは四輪車は通行は困難ですが、こういう時にこそ原付は威力を発揮してくれるというものです。
坂を登った途中にある富士見公園は、現在ではどこにでもありそうな児童公園ですが、もともとは無縁墓地でした。
墓石のほとんどを浦賀へと改葬し、市営公園となったのが昭和34年のことです。
今は墓地の面影はありませんが、公園の奥のほうを見ると数基の石塔や墓石に混ざって忍塚(しのぶづか)と呼ばれる石塔が建てられているのが分かります。
この自然石の忍塚の裏側には、「当軍港創肇(そうし)工事中之犠牲者従役囚人百五十一名乃行路死者鎮魂碑 篤志者 大正十一年五月四日」と陰刻されています。
これは横須賀軍港や横須賀製鉄所の建設に携わった囚人たちのうち、事故や病気などで斃れた人たちの霊を鎮魂しているもので、ここに葬られた人たちも無縁であることは想像に難くありません。
横須賀製鉄所は、のちの横須賀造船所であり、江戸末期に幕府により開設されました。
フランスの技師レオンス・ヴェルニーを招いて建設されたので、現在でも対岸の公園はヴェルニー公園としてその名を偲んでいます。
徳川幕府が崩壊して明治新政府の時代となってからは海軍省の管轄となり、やがて横須賀海軍工廠となって多くの軍艦を建造したところです。
現在は在日米軍横須賀基地や海上自衛隊の基地となっていますが、現在でも幕末に造られた日本最古のドックが残り、ヴェルニー公園から眺めることができます。
これは現在では横須賀第一ドライドックとして三基並んだドックの右端にあり、艦船の修理用として現役で使用されているという事です。
これらの工事では、当初慶応元年(1865年)に江戸石川島の寄せ場(現在でいう刑務所)から囚人を200人集めて作業をしていました。
このころには病人が続出して多くの囚人が倒れ、緑が丘の良長院の裏山に葬られたと言われている、と「横須賀こども風土記」には書かれています。
その後も平坂上にあった横須賀監獄の囚人を猿島砲台の建設へと駆り出したり、走水からの送水管の敷設工事に従事させるなどしたという事で、軍港や要塞の建設に駆り出された多くの囚人たちは犠牲者となったものも多く、無縁として葬られていったといいます。
ここにある、地蔵菩薩の立像をいただいた無縁塔は大正十二年五月の建立です。
この無縁塔の建立には、多くの人たちがお金を出し合って建立したことが台座に陰刻された文字からわかり、この中には4~6代横須賀市長であり海軍将校であった奥宮衛の名も読み取れるのです。
この公園は富士見公園という名前ではありますが、この公園の西側にはさらに高い丘陵がそびえているので富士山を望むことはできませんでした。
この日は平日だったので、公園で遊ぶ子供の姿すらなく、ただただ吹き抜ける優しいそよ風が木々の梢を揺らす、物静かな公園でした。
いま、訪れる人もあまりない小さな公園の奥にひざまづき、すっかり苔むした無縁の地蔵菩薩の立像に手を合わせるとき、この国の海軍力の発展になくてはならない仕事をしながら、無縁として葬られ忘れ去られていった数多の囚人たちの後ろ姿が思い起こされるようで、ここにも無常の歴史のはかなさをひしひしと感じたのでした。