横浜市営地下鉄の上永谷駅から北側の、環状2号線沿いのところにあるのが上永谷地区の鎮守さま、永谷の天神さまとして親しまれている永谷天満宮である。
この永谷天満宮は学問の神様である菅原道真が、自らの姿を鏡に映して自分で彫り上げたとされる、3つしかない木像のうち1体を祭神としてあがめる神社である。
菅原道真は平安時代に醍醐天皇の信任を受けるも、実質的な支配者であった藤原一族と対立したことが仇となり、延喜元年(901年)には京都から九州の太宰府へと流され、延喜3年にその地で亡くなったとされる。
実に頭脳明晰で、特に文学や文才に秀でていたので、千年以上を経た現在でも学問の神様として崇められており、京都から九州へと流刑とされた菅原道真を祀る神社は日本全国に点在している。
しかし、先にも述べた3つの木像のうち1体が、なぜ上永谷にあるのか。
それには、聞くも悲しき歴史の哀話が込められているのである。
菅原道真には、分かっているだけでも20人前後の子供たちがいたとされているが、その一人一人について、詳しい事が分かっていない子供たちもいる。
そのうち五男であった菅原敦茂は、父の才能を受けついで「菅秀才」と呼ばれるほどであったために父の道真も大いに行く末に期待を寄せ、3体の道真像のうちの1体を預けていたのではないかと言われている。
しかし、父の道真が都から追放されると同時に、多くいた子供たちも全国へと追放される憂き目にあり、現在の研究では菅原敦茂は播磨の国へと追放されたと言われているが、この永谷天満宮の伝承では永谷の郷に現在も残る曹洞宗寺院、天神山 貞昌院付近に居館を構えたとされる。
菅原敦茂は、朝に夕に上永谷の天神山に登っては、はるか西方に住まう父、菅原道真に頭を垂れての挨拶を欠かせなかったのだという。
いま、永谷天満宮の裏の天神山には階段が据えられて、山頂まで行くことが出来るが、菅原敦茂も朝な夕なにこの坂を登ったことであろうか。
また、そこには、菅原敦茂が愛用した筆や、髪の毛を埋めたとも伝えられる「菅秀塚」が残されている。
現在でも説明の看板なども整備されて、今なおこの悲しい親子の哀話を伝えているのである。
時代は流れ、この辺りを領有した宅間上杉家の当主であった上杉乗国の夢枕に、この道真像が霊夢となって現れたことがあった。これを受けて明応2年(1493年)に2月に上杉乗国が社を建て、この像をねんごろに祀ったのである。
これが現在の永谷天満宮の始まりとされており、他の2体の菅原道真像は、菅原道真が葬られている福岡県の安楽寺と、生誕地とされている大阪府の道明寺で今も伝えられているという事である。
いま、ここの天神山の山頂の「菅秀塚」がある高台の上からはるか製法を眺めるとき、遠くに連なる丹沢大山の山並みと、はるか遠くにうっすらと浮かび上がる秀麗の富士山を仰ぎ見ることができ、ここから富士山よりも遥かに遠い九州の地に向けて頭を垂れる菅原敦茂の姿が目に浮かぶようで、一抹の哀話を思い出し熱い涙が頬をつたうのである。