伊豆箱根鉄道大雄山線の終点である大雄山の駅から、北側へ500メートルほど原付を走らせ、怒田の里を見下ろす小高い丘の上まで上り詰めていく。
そこは広々とした範茂記念公園と呼ぶところで、ここからは指呼の間に開成の街並みと遠く流れる酒匂川を眺めることが出来る。
現在となっては保育園児たちの遠足の地となり、多くの人が散歩やピクニックを楽しむ明るい公園であるが、その名の示す通りこの公園はもともと藤原範茂(ふじわらののりしげ・ のりもち)という鎌倉時代前期の公卿、すなわち皇室に仕えた公家の中でも上位の公家にまつわる公園である。
藤原範茂は、順徳天皇の外叔父にあたる人物で、官位は従三位の「参議」であった。
後鳥羽天皇の側近として辣腕を示し、後鳥羽天皇のみならず自らの姉の藤原重子(修明門院)の子である順徳天皇の近臣としても権勢をふるった人物であったが、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が筆頭となって、鎌倉幕府打倒により政権を朝廷へ戻さんとする兵を挙げた、いわゆる承久の乱が勃発する。
藤原範茂は、この承久の乱では公卿として朝廷側につき、自ら宇治川の戦いの先陣へと出たものの囚われの身となり、一連の乱の首謀者であるとして斬罪に定められてしまったのである。
その後、鎌倉の地での刑とすべく北条朝時により京都から東国へ護送される道中、敬虔な仏教徒であった範茂は、北条朝時に「五体不具では往生もままならぬ。首を落とすのではなく、いっそ入水での刑を所望したい」と願い出たのである。
当時の仏教の考えでは、五体満足であることが極楽へと往生する条件でもあったのだから、特に首を切り落とす斬首刑は当時の仏教徒にとっては何よりも恐ろしい事であったのだろう。
そうして、承久3年(1221年)6月、足柄山の麓の清川、今では公園の南を流れる貝沢川と伝えられているところに護送された範茂は、着物の中におびただしい石を入れると自ら念仏を唱えながら川の中に入っていき、
思いきや 苔の下水 せきとめて
月ならぬ身の やどるべきとは
という辞世の句を残し、壮絶な最期を遂げたという事である。
この死を憐れんだ役人たちは、範茂の死を確認するとその首級を落とすこともなく、その亡骸を高台へと運んでねんごろに葬った。
それがいまの範茂記念公園に残された宝篋印塔なのであるという。
この宝篋印塔には今なお多くの人が詣でるようで、この時も真新しい花が供えられ、新しい線香の残りが煙を上げていた。
また、散歩をしていた老夫婦が、この宝篋印塔の前で立ち止まり、一礼する姿も見られたことから、この地域では里人たちにすいぶんと親しまれているのであろう。
この宝篋印塔の脇には、範茂の従者の者と伝わる小さな五輪塔が集められ、戦乱の時代を生きたことへの、より一層の悲哀を今に伝えているかのようである。
この公園から眺める風景は、開成町の穏やかな街並みを眼下にとらえ、薫風が吹き抜ける中に秋の香りが伝わり、遠くには大空を埋める秋雲がならんで、誠に風光明媚なところであった。
いま、この藤原範茂の宝篋印塔に手を合わせ、眼下に望む開成の街並みを眺めていると、かつて囚われの身となりながら鎌倉にむけた悲運の旅をつづけた範茂を護送する隊列の姿と、この近くで念仏をとなえ衣服に石を詰める範茂の哀れな後ろ姿が目に浮かぶようで、戦乱の時代のなせる哀話をそくそくと思い起こさせるのである。