みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

謀略と慈しみの武将だったか 三浦義村公の墓(三浦市)

冬風が吹き荒ぶ三浦海岸の海沿いで旋回するトンビを眺めながら、快調に原付を走らせていたところ、ふと崖上に伸びる階段に目が行った。

その脇には、うっすらと「三浦義村の墓」と壁に書かれており、これはっ!! と、この階段に吸い寄せられるようにして登り始めた。


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この三浦海岸沿いの道は、今まで車でも原付でも数えきれないほど走っているが、何故かこのような階段に気づく事はなかった。

 

しかし、小さな小径に入って行く曲がり角が目についたので、この先には何かがある気がすると無意識にハンドルを切った瞬間、この小さな階段が目に入ってどうにも気になり、バイクを止めて見上げてみたのである。

 

こんなところに、鎌倉幕府の有力なる御家人にして、相模国に勢力を振るった三浦氏族の廟所があろうとは、まさに青天の霹靂というべきであろうか。

 

その階段を登り詰めたところ、案内の看板に隠れるようにして三浦義村公の墓と伝えられる石積みが残されているのである。

 

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三浦 義村(みうら よしむら)公は、鎌倉時代初期の相模国の武将であり、鎌倉幕府の有力御家人として権勢を振るった三浦一族の当主、三浦義澄公の次男であった。


治承4年(1180年)に源頼朝に挙兵させるべく、父であった三浦義澄公は東胤頼とともに頼朝への決断を促した逸話は「吾妻鏡」の治承4年6月27日の項に紹介されており、おそらく息子である義村公も参加していた事であろうか。

 

正治元年(1199年)の梶原景時の乱、元久2年 (1205年)の畠山重忠の乱では戦功を立てるが、建暦3年(1213年)には北条方についてしまい、共に同盟して北条氏打倒の契りを結んだ従兄弟の和田義盛を北条氏側に売り渡し、これにより和田氏は滅び、自らは鎌倉幕府内での地位を大きく上げている。

 

時は流れて、建保7年(1219年)1月には源頼家の子である公暁が3代将軍・源実朝を暗殺する事件を起こした。

公暁は義村公に対し「実朝亡き今、我こそが東国の大将軍である。その準備をせよ」という書状を送り、それに対して義村公は迎えの使者と偽って刺客を放ち、公暁を暗殺してしまう。

 

また、承久3年(1221年)の承久の乱では、後鳥羽上皇の近臣だった弟の三浦胤義公から決起をうながす使者を送られるが、義村公は直ちにこれを北条義時に密告した。

三浦義村公は幕府軍の大将の一人として東海道をのぼり、京方を破って上洛。胤義公はこれにより敗死した。

 

三浦義村公は、このように策謀と計略を駆使しながら、身内をも裏切る冷酷さをもって幕府内での地位を着実に高めていき、それは鎌倉幕府内での三浦氏の地位をも高めたに見えたが、結局は「三浦の犬は友を食らうぞ」と評されたように世間の評判は芳しくなかったという。

 

鎌倉幕府を擁する相模国の支配者として、大きな発言権と実力を持った三浦氏であったが、これらの内紛の繰り返しと、北条氏との対立は避け難く、最後には次代の三浦泰村公の代になり、宝治合戦で北条氏との武力衝突へと突き進んだのである。

 

鎌倉時代の東国武士の墓には、このような自然石を積んだものも多いが、その奥では最近になってから綺麗に作り直された墓にも出会うことができる。


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その足元には「三浦三つ引」ともまた違う、「丸の内に三つ引」が陽刻されており、これはみうけん家の家紋とも同じものである。

実際、このような三浦一族の墓において「三浦三つ引」を見ることはまずないが、やはり正式には「丸の内に三つ引」が正しいのであろうか。


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この墓の案内看板には、

領内の開拓をいつくしみ領民には慕われその治世には見るべきものがありました。生前、義村公は父祖伝承の地であるここ岩浦の里の要害をたのんで福寿寺を開基、菩提寺となし、没後福寿寺に近いこの台地に祀られました。

 

とあり、策謀をめぐらし骨肉の争いをなした義村公と、領民を慈しみ慕われた義村公の二つの顔が見えてくるようである。


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現在、近くの丘の上には三浦義村ゆかりの福寿寺が今なお残されて民衆に仏道を示し、その有難い御加護をあまねく伝えている。

 

この福寿寺は次回の訪問の課題として残しておいたが、この三浦義村公の墓所のある高台から眼下に望む金田の海原を眺めるとき、静かに旋回するトンビの群れの姿は昔から少しも変わることなく、義村公のこよなく愛したであろう三浦半島の原風景を、今なお伝え続けているのである。