上大岡駅前から鎌倉街道を南下していくと、横浜横須賀道路の日野インターチェンジの出入り口の脇にあるのが、日野あたりの総鎮守として崇敬を集める春日神社である。
この春日神社は通称「春日さま」とも呼ばれて親しまれ、御祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)であり、その創建は古く康和元年(1099年)にさかのぼる。
この春日神社には不思議な言い伝えが残されており、それによれば京の貴族であった藤原成実が仁和寺に参詣したおり、突如としてみすぼらしい姿の老人が寄ってきて、わざと履いていた草履を脱ぎ、成実の前に落として見せたのである。
最初は不審に思った成実であったが、草履を拾って老人のもとへ揃えたところ、老人は微笑みながら小さな木像を差し出し、
「そなたの信仰心と実直な心は見上げたものである。よって、この神像を贈るゆえに大切に護持し祈り続けるが好かろう。さすれば、十年の後には、そなたは大国の長官にまで出世するであろう。ゆめゆめ疑うことなかれ・・・」と言うが早いか、まるで煙のように姿を消してしまったのである。
その神像は、紫の冠をかぶり、小さな剣を脇に挿した人形であった。
最初は疑いの心であった成実であったが、もしかするとこれは藤原氏の祖先の霊である春日大明神の御神体ではないかと察するに至り、何よりも大切に扱い、日夜の祈りと供物を欠かせなかったという事である。
その後、予言通りに武蔵の国の国守となった成実は、諸国を巡察する途上で、ここ日野の里にたどり着き、不思議な噂話を耳にしたのである。
なんでも、見たこともない不思議な僧が突如として現れ、地面を杖で突いたところこんこんと水が湧き出すようになり、しかもその水を飲むとどんな病でもたちまち治してしまうのだという。
その僧は自らの信仰する仁和寺の僧であったことから、この霊水の地は春日大明神を祀る場所にふさわしいと考えた成実は、さっそくこの僧を呼び寄せて神社と真如坊(現在の徳恩寺)を造営し、この神像を納めたのである。
当初は穂井神社と称していたものが、やがて神像にあやかって春日神社と名を変え、幾たびかの戦火に焼かれながらも神像は大切に護持され続け、ことに江戸時代に建てられたという現在の拝殿と本殿の彫刻の素晴らしさには目を見張るものがある。
現在の社殿は権現造といって、名主の高梨政栄が嘉永7年(1854年)に建立したものである。
これらの見事な彫刻は安房国千倉郷の代表的な彫刻師であった後藤利兵衛義光の作で、り、西叶神社の彫刻も彼の手によるものである。
いま、横浜市の指定天然記念物にも指定された社叢林を歩きながら、この春日神社の歩んできた悠久の歴史を思い起こすとき、錫杖で突いて水を沸かせた不思議な言い伝えと、今に続く市井の人々の信仰心が不思議と重なり合うようで、ここにも歴史と民話の奥深さをしみじみと感じ取るのである。