先日、相模湖畔に残された「御供岩」の話を紹介しました。
その際に、近くにある「與瀬神社」に行きました。
この與瀬神社は「よせじんじゃ」と読みますが、地元では「与瀬蔵王権現」「与瀬のごんげんさま」と呼ばれ、また単に「ごんげんさま」としても親しまれています。
この神社は武運・勝運・開運守護と身体安穏・虫封じに霊験あらたかとされています。
御祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をまつり、その正確な由緒や創立年代は定かではないものの、その由緒に対する伝説は「御供岩」の記事にまとめた通りです。
元々は相模川の近くに鎮坐していたそうですが、古社を天和2年(1682年)に現在地に移したそうです。徳川幕府第3代将軍、徳川綱吉公のころです。
その後、元綠年間にはほぼ今の姿になったとされていますが、明治37年(1904年)、まさに日露戦争が勃発した年に火災にて全焼てしまいました。
その後、大正3年(1914年)に本殿が、昭和24年(1949年)に拝殿が再建されて現在に至ります。
さて、この記事でわざわざ取り上げるまでに注目したいのは、この與瀬神社の拝殿には実に立派な神話彫刻が飾られている点です。
今まで見た中で立派な拝殿彫刻は、横浜市港南区の春日神社のものですが、この與瀬神社の拝殿彫刻も負けず劣らず立派なものだと思います。
まず一枚目は、天岩戸に隠れてしまった天照大神(アマテラスオオミカミ)を天手力男神(タヂカラヲノミコト)が岩戸をこじ開けて引き出すシーン。
その前では長鳴鳥(ナガナギドリ)が鬨の声をあげ、天鈿女命(アメノウズメノミコト)様が招霊(オガタマ)の木の枝を振り、乳房までさらけ出して踊る姿、それを見て拍手喝采する神々の姿が見事に表現されています。
ここで、あえて天照大神(アマテラスオオミカミ)の姿は彫刻せずに光の線だけで表しているのも、また秀逸な技法であると思います。
次に、この神社のご祭神である日本武尊(ヤマトタケル)の東征物語を表現したと思われる彫刻。
日本武尊は、4世紀ごろに東国へと勢力拡大をねらった大和朝廷のなかでほぼ実際にあったといわれている東征物語の一大叙事詩で、いまでも古事記や日本書紀の中にその物語を見ることができます。
特に弓の上にあしらわれた雉と思われる鳥が印象的でした。
この記事に関して「高遠藩」様から以下のようなご指摘がありました。
ヤマトタケルの命との説ですが、神武天皇の東征ではないでしょうか。熊野の山に立てこもるまつろわぬ神々を平定せる際に、天照大神が金鵄を使わされました。賊の目を光でくらまして平定されたと記紀にあります。時代背景からも神武天皇のほうが親しみが深い時代だったと思います(戦時中は金鵄勲章もありました)
確認したところ、まさにその通りでした。
ここにお詫びして訂正させて頂きます。
いかに街道沿いとはいえ、当時はかなりの山奥にあった與瀬神社ですが、このように立派な彫刻を持ち、かなり由緒も正しかった神社でした。
そんな神社に奉納すべく、昔の名もなき名人たちは日夜を隔てず板木に向き合い、一心に神像を彫り上げた事でしょう。
與瀬という地名も古く、現在はJR中央線の「相模湖駅」もかつては「与瀬駅」という名前だったそうです。
かつての甲州街道の宿場町は、現在は鉄道の開通と高速道路の発展により多くの人が足を停めずに通過してしまう所となってしまいましたが、まだ武蔵国と相模国があったころの与瀬宿の繁栄は目を見張るものがあったといいます。
この與瀬神社も、昔から多くの人たちに親しまれて愛されてきたのでしょう。
参拝を終えて急な石段をそろりそろりと降りるとき、かつての旅人たちがこの階段を上り下りして旅の安全と加護を願った昔日の日々が、遠くにひろがる山々の光景と共により美しく眼前に蘇ったのです。