みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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泉区のサバ神社に伝わる 遊行聖・木食観正上人石塔(横浜市泉区)

相鉄線いずみ中央駅前を流れる和泉川の流れを下っていくと、ほどなくして和泉町桜川公園にたどりつきます。

 

その公園の脇の道を山側へ登っていくと、ほどなくして中之宮左馬神社(なかのみやさばじんじゃ)にたどり着きます。

 

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森の中にひっそりと建つこの神社は、左馬頭源満仲(さまのかみみなもとのみつなか)と、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)をご祭神としてあおぐ中和泉地域の鎮守さまとして崇敬されており、この和泉川沿いに多く見られる「サバ神社」の一社となります。

 

この神社の御由緒ははっきりしていませんが、平安時代から鎌倉時代ごろとされています。

 

昔から「相模七左馬(鯖)」のうちの1つとして崇敬を受けた神社で、新編相模風土記稿にも「鯖明神社」として記録されています。

 

江戸幕府の第3代征夷大将軍となる徳川家光公の治世である寛永2年(1625年)、この和泉村の領主となった松平勝左衛門昌吉は、荒れ果てていたこの神社を村の鎮守として立派に再興し、三河国にあった松平氏の庶流「能見松平家」の累代の祈願所としました。

 

その後、明治6年12月には和泉村の「村社」に列せられています。

 

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和泉川流域に残されたサバ神社は「鯖」を中心に「佐婆」「左馬」「佐波」などいろいろな漢字をあてますが、多くのサバ神社のご祭神が源義朝源頼朝の父)であるのに対して、この中之宮左馬神社は源満仲源頼朝の七代前、多田源氏の祖)がご祭神となった珍しい例です。

 

文化13年(1816年)、天保6年(1835年)の棟札が残されている立派な総けやき造りの本殿を中心として、境内には神楽殿やコンテナを利用した珍しい建物、庚申塔西南の役の忠魂碑などが並んでいます。

 

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境内にある石塔は木食觀正碑(もくじきかんしょうひ)と呼ばれるものです。

 

木食観正上人とは江戸時代後期の僧で、現在の兵庫県淡路島で貧しい漁師の家に生まれ、僧となってからは木の実や果実だけで生きながらえる「木食修行」を行いながら諸国をまわり、文政元年(1818年)ごろに小田原に姿を現しました。

 

それ以降は小田原を拠点にしながら関東各地を旅し、多くの人を病や悩みから救っただけではなく、木食観正上人の水祈祷は霊験あらたかで、雨ごいをして雨を降らせたことがあるとも伝えられています。

 

広く民衆から親しまれて弘法大師の再来とまでうたわれ、人々に熱狂的に崇敬されて小田原上人とも呼ばれて親しまれました。

 

この噂は小田原宿から口伝と瓦版を介して遠方まで伝わり、その御利益を求める信者が観正のもとに集まり大変な賑わいであったと言い伝えられています。

 

ここ泉区の中之宮左馬神社に残る石塔の表面には、「木食観正」と深く刻まれ、その上には全ての梵字の基本母音となる「ア」の字が刻まれています。

 

この文字は、梵字を習う際に最初に学ぶ一字でもあり、極めて大事な梵字とされているだけではなく、胎蔵界における大日如来をはじめとする、すべての仏様を具現する梵字でもあるのです。

 

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また、その台座には「講中」の文字を中心として、世話人や村人たちの名が綿々と刻まれており、この当時の村人たちがいかに木食観正上人を厚く信仰していたかを窺い知ることができるのです。

 

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江戸時代の仏教というものは、すでに形骸化が始まり葬式仏教と呼ばれはじめていたばかりか、当時の寺院は現在でいう役所のような役割を持ち、村民を檀家として管理していたことから寺院にこもって権勢をふるうばかりの名ばかり僧侶が後をたたなかったといいます。

 

そのような既存仏教は公儀(幕府)仏教とも呼ばれ、仏教の腐敗を嫌って真面目に修行する僧には一定の人気が集まったといいますから、木食観正上人が絶大な人気を博したのもうなずけます。

 

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このように民衆から絶大な人気を誇りながらも、驕り高ぶることを良しとせずに頑なに木食修行と質素の道に生きた木食観正上人でしたが、文政12年(1829年)3月に「江戸の大火に対する加持祈祷が悪質であった」という罪で捕らわれ、ほどなくして刑場の露として消えました。

 

この騒動の裏には、木食観正上人の徳の深さと人気ぶりに嫉妬を抱いた他宗派による密告があったと考えられています。

 

いま、訪れる人もあまりない中之宮左馬神社の境内をひとり歩き、苔むして雑草に埋もれようとしている木食観正上人の石塔にそっと手を合わせるとき、かつてここで民衆をあつめて火を焚き、念仏を唱えながら加持祈祷する上人の姿と、それを見守り手を合わせる村人たちの姿がまざまざと思い起こされるようで、ここにも在りし日の確かなる思い出を甦らせたのです。

 

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