京浜急行と横浜市営地下鉄が交差する、横浜市南部のターミナル上大岡駅。
その上大岡駅から10分ほど歩いた住宅街の中にあるのが、高野山真言宗の寺院である大久保山 地蔵寺 自性院です。
江戸時代に編纂された歴史資料の「新編武蔵国風土記稿」の久良岐郡 本牧領 久保村の項において、
自性院
除地二段六畝十五歩。小名北ノ谷にあり。古義真言宗。石川寶生寺の末。久保山地蔵寺と号す。本堂は近き頃焼亡して今だ再興に及ばず。庫裏南向。本尊地蔵を安ず。立像長一尺許。傍に弥陀不動及び弘法等の像を置。開山開基詳ならず。
と紹介されています。
このお寺には、聞くも悲しき「みどり姫」の伝説が、今でも語り継がれ、ねんごろに供養されつづけています。
事の発端は、太平洋戦争が激しさを増した昭和19年ごろのことです。
全国の食糧事情も悪くなり、全国の家庭では少しでも余分な土地があれば畑を作って野菜を育てるとともに、空襲に備えて防空壕を掘ったりする毎日でした。
この自性院がある大久保でも地元の人々が穴を掘っていたところ、鍬の先に石があたったので掘り出したところ、出てきたのはお経が書き込まれたこぶし大の石だったのです。
そのような石は1つや2つではありません。穴を深く、広く掘れば掘るほどごろごろと出てきたのです。
やがて、石の下から古い骨壺と、千手観音の梵字を大石の板碑が大切に埋められているのが発見されました。
知らない事とは言え、墓荒らしをしてしまったのですから祟りがあってはならないと、鎌倉から高名なお坊さんを呼び寄せ、埋まっていた板碑を立ててねんごろに供養したのです。
古老の話によれば、これは600余年も前のこと、南北朝時代にまで遡るお話しだそうです。
京都に住んでいた「みどり姫」という高貴な身分のお姫さまが、若者に恋をしたことがありました。
しかし、お姫さまはその気持ちを伝える事もできないまま、若者は東国へ派遣されて旅立ってしまったのです。
みどり姫は、その若者に対する想いをどうしても諦めることができなかったのでしょう、ついに若者を追って、東国を目指して長い長い旅に出たのです。
当時、みどり姫が住んでいた京の都から見れば、武蔵の国とは最果ても最果て、どんなところか想像もつかないほど遠くて辺境の地でした。
みどり姫は何ヶ月も歩きながらようやく大久保の地まで辿り着きましたが、その無理がたたって重い病にかかり、歩くことすらままならず、村人の手厚い看病もむなしく帰らぬ人となったのだという事です。
これを哀れに思った村人たちは、みどり姫が成仏できるようにとお金を出し合って板碑を作り、墓の上には経文を書いた石を積み上げてねんごろに葬った、という事です。
このみどり姫の供養板碑は、自性院の山門の向かい、細く伸びた私道の先にわずかに残された竹林の中に、いまでもひっそりと残されています。
今ではすっかり宅地開発されていますが、ここも昔は、訪れる人もまばらな寂しいところだったのでしょう。
せっかくでしたので、御朱印を拝受いたしました。
まずは御本尊さまである、お地蔵さまの御朱印。
力強い筆遣いと金泥で書かれたお地蔵さまの梵字が素晴らしいですね。
また、千手観音さまの御朱印も拝受しました。
こちらも「観」の字から跳ね上がる、特徴的な御朱印です。
初夏の日差しが照りつける晴れの日、わずかに残された竹林の中にひっそりと佇む「みどり姫」の板碑に手を合わせ、そっと眼を閉じるとき、長い長い旅路の果てに、愛する人に会う事もできずに無念のまま亡くなっていったみどり姫の無念がこちらにも伝わってくるようで、わずかな風に揺れる竹の葉のこすれる音までが、幾星霜の悲哀をいまに訴えかけているかのようです。
【みうけんさんオススメの本はこちら】