横浜市、といってもほとんど川崎市や町田市に接するのが青葉区です。
青葉区の恩田町の辺りではのどかな農村風景が広がり、土日ともなれば東急こどもの国線というローカルな電車に親子連れがたくさん乗って、こどもの国へと向かう楽しげな光景が見られるところです。
そんな恩田の里の杉山神社の近くに、真紅の鳥居が鮮やかな社が住宅に囲まれるようにして建っているのを見て取ることができます。
その境内には、立派な石祠が2基仲良く並んでいるのが見えます。
ここには由来の書かれた看板などは何もありませんが、2基の祠のうち右側の祠こそが身をもって恩田川の氾濫を食い止めたとされる、内方姫の供養塔だということです。
また、その左側の祠は詳細は不明ですが、よく似通っているように見えて屋根のデザインがだいぶ異なっています。
この祠も何らかの供養塔でしょうか。
2019年8月7日付神奈川新聞(カナロコ)によれば、この供養塔はかつては山の上にあったとされていますが、容赦のない宅地造成の波に抗う事は出来ず、現在の場所に移されたという事です。
言い伝えによれば、中世ごろに恩田城(現在の福昌寺のあたり)に、内方姫という美しいお姫さまがいたそうです。
この内方姫はとても心根が優しく、村人たちからもよく慕われていましたが、ある日の大雨によって恩田川が氾濫しかけたことがありました。
もう少しで堤防が切れ、村と田畑が濁流に飲み込まれようとしたとき、内方姫は館を飛び出して濁流が荒れ狂う恩田川のほとりに立ち、この身と引き換えに村を救うべしとの願いを込め、その濁流に身を躍らせたのだといいます。
すると、驚くことに濁流は嘘のように収まって村は救われたのだといいます。
結局、内方姫の遺体はどこにも見つからなかったものの、土中からは内方姫の遺品であった櫛が見つかりました。
内方姫の高徳を偲んだ村人たちは、この櫛を内方姫の代わりとして、村をよく見渡せる高台に墓を築いてねんごろに供養したのだという事です。
この内方姫の供養は現在も休むことなく続けられており、元は農家であった旧家14軒の女性たちが「姫宮様講中」(ひめみやさまこうちゅう)を作り、現在でも輪番で年に一度、内方姫の命日とされる4月11日に供養祭を行っているという事です。
この内方姫供養塔から少し坂を下っていくと、奈良川が流れています。
その奈良川を下っていくと、すぐに恩田川へと合流しますが、現在ではこのように平穏そのものに見える鶴見川水系も、かつては暴れ川と呼ばれてたびたび氾濫を繰り返し、多くの人々の暮らしを飲み込んだのだといいます。
いま、橋の上に一人たたずんで、奈良川の流れの中はるか遠くで餌探しに夢中になるサギの姿を眺めているとき、かつてこの近くで一人のお姫さまが人柱として身を挺し、そのことを知った村人たちが涙を流して合掌号泣しているさまが目にうかぶようで、ここにも容赦のない時の流れを感じたのです。
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