JR横浜線の車窓から、どこまでも続いているかのような広々とした草原の中に、いかにもアメリカ風といった建物や軍用車両が並んでいる様を見ることができますが、これが米軍相模原補給廠です。
ベトナム戦争の際には破壊された戦車の修理工場などとしても機能しましたが、その一部は徐々に変換されているものの、駅前の一等地を今でも文字通り「占領」し続けています。
その広大な米軍相模原補給廠の裏手、上矢部3丁目の住宅街の奥に砂利道があり、その砂利道を歩いていくと、片隅に古い板碑が大切に祠にしまわれて残されているさまを見ることができます。
この板碑は、通称「上矢部板碑」と呼ばれており、歴史学的にもたいへん貴重なものです。
建立年は乾元12年(けんげん12年=1303年)に建てられたもので、乾元年間といえば鎌倉幕府の第8代征夷大将軍であった久明親王(ひさあきしんのう、又は、ひさあきらしんのう)の頃です。
もともと板碑というものは多く中世に作られたものが多く、神奈川県では以前に紹介した小田原国府津の「建武古碑」などが有名です。
このような古碑が作られた時代はまさに戦乱の世の中でした。
鎌倉幕府とはいえその権威は限定的なもので、なお全国の政情は混沌とし、天下は大いに乱れて領民は凶作や飢え、野武士と呼ばれる盗賊や領主からの重税に苦しんだ時代です。
医療すら未熟で、生水をすすっては流行り病が出たといって神仏にすがった時代であり、生き抜くことすら大変だった時代です。
この上矢部板碑も、主に死者の供養のために建立された石製の卒塔婆であり、その表面には梵字や仏像が刻まれ、その功徳によって死者の無念の魂を慰めようとしたのです。
この板碑は、当時このあたりで勢力を伸ばし、館を構えていた矢部義兼(やべ よしかね)の供養碑であるといわれています。
矢部義兼はもともと、遠くは小野妹子を祖とし、この地域を強力に支配していた「横山党」の一員でした。
しかし、横山党は建暦3年(1213年)の和田合戦にて和田義盛方として参加し、67歳で戦死してしまいます。その追善供養のために、後年の子孫によって建てられたものが、この上矢部の板碑だということです。
この板碑をじっくりと眺めてみると、その上部には阿弥陀如来の像がハッキリと残り、その下の左右には蓮の花が咲き誇っています。
中央には「乾元二年八月・・・」と陰刻され、矢部義兼の90回忌にあたる年です。
夏も終わりが近づいてきた初秋の日、近くの砂利から伸び始めた彼岸花の茎が風に揺れるさまを眺めながら、この板碑にそっと手を合わせました。
すると、胸の中に秘められた和田義盛公に対する追慕と、この時代を生き、先陣の中にちった矢部義兼の無念の慟哭が我が身にも伝わってくるようで感慨深いものがあり、ここにも時の流れの無情というものを思い知らされたのです。