横浜市の中でも戸塚の不動坂交差点は、交通量も多く渋滞の名所として知られているが、その不動坂交差点から北に向かう県道401号線に入って、横浜新道の上矢部インターチェンジの入り口を過ぎると、左手のゴルフ場を過ぎたところの路地の奥に小さな供養塔が残されているのに気が付く。
崖とフェンスに囲まれるようにして建つ、この小さな供養塔は、地元では丹後局(たんごのつぼね)の供養塔と伝えられており、丹後の局とは歴史上二人の女性の名となっている。
一人目は平安時代末期〜鎌倉時代初期の女性で、後白河天皇の側室となり権勢を振るった女性で別名は高階栄子という。
二人目は平安時代末期〜鎌倉時代初期の女性で、源頼朝の乳母・比企尼の娘であり別名は丹後内侍といった。
この一方で二人は実は同一人物であるという主張もあり、実情ははっきりしておらず分かっていない事も多い謎の多い女性なのである。
この慰霊碑には丹後の局のことが紹介されており、それによれば丹後の局はもともと源頼朝の寵愛を受けた愛妾であった。
正妻の北条政子に先立って頼朝の子を妊娠したがために、気性激しく嫉妬深かった北条政子の逆鱗に触れて屋敷を追放されて流浪の身となるが、この近くにある伊勢宮の瑞籠(瑞籬=ずいり。神社などの玉垣。みずがきのことか)に隠れて出産し、この山は丹後山と呼ばれるようになったのだという。
また、丹後の局終焉の地が塚として残っていたというが、団地造成のために塚を改葬し永く古蹟を残すと記されているのであって、この地が塚であったか否かは今となっては知る由もないのである。
伊勢宮というのは近くにある丹後山神明社のことで、その正確な創建がいつなのかすら分かっていないが、この丹後局の伝承が残されていることから鎌倉時代にはこの地にあったのであろうか。
いま、この神社には訪れる人もあまりないのであろうか、境内には落ち葉が積もって蜘蛛の巣が張り、わずかに由来所の看板が丹後の局の伝説を今に伝えるのみで、境内にはこぢんまりとした本殿が残されているのみの小さな神社である。
丹後局は、たいへんな美貌の持ち主で学識も高かったがために源頼朝の愛妾として生き、頼朝の子を身ごもったがために、この小さく寂しい神社で子を産んだと言われており、その際の丹後の局の心境やいかばかりであったろうか。
この時に生まれた子こそが、のちの鎌倉幕府御家人であり鹿児島地域を支配した名門大名である島津氏の祖となる島津忠久(しまづ ただひさ)であろうとも言われている。
もし、ここで生まれたのが実際に島津忠久であったとすれば、この場所は歴史的に非常に重要な意味を持つことは言うまでもないのである。
いま、この小さな神社の境内に立って、積もったままの落ち葉をかきわけて狭い境内を一周して手を合わせるとき、歴史の波と激情に翻弄されて悲しい出産を行った稀代の美女、丹後の局の姿がここに甦るかのようで、ここにも時の流れの無情さを痛感するのである。