JR線と京王線が繋がり、発展も著しい橋本駅界隈は、今となっては横浜や横須賀の主要駅に近いほどの賑わいようです。
しかし、これほどまでに発展した橋本もかつては戦国時代の甲冑が発掘されたことがある因縁の場所なのです。
その場所は橋本2丁目交差点の一角にあり、今でも3基のの石碑が残されているので、この場所を見たことあるという方もいらっしゃるのではないかと思います。
この3基のうち、いちばん左にあるのが大東亜戦争(第2次世界大戦)による戦没者を祀った、いわゆる「忠魂碑」です。
中央は日清・日露戦争の戦没者を祀った「表忠碑」で、山縣有朋元帥の揮毫です。
そして、右にあるものが「供養塔」です。
戦国時代、関東に侵攻を進めていた武田信玄が甲斐に戻る際に北条氏康が襲い掛かった三増合戦において、数えきれないほどの落ち武者が出たといいます。
その落ち武者はことごとくが首をはねられて胴体のみが無残に転がるもの、落ち武者狩りに合い逃げまどうもの、道に迷って腹を切るものまでいるありさまで、その霊を供養するために建立されたのがこの供養塔なのです。
この三増峠の戦いでは、小田原城に立て籠もる北条軍に業を煮やした武田軍があきらめて甲州に引き返す途中で、八王子から来た北条氏照・氏邦隊に襲われますが、山岳戦を得意とする武田軍は兵法を駆使しながら北条軍を撃退しました。
北条方の武士が滝山城へ敗走していく中で道に迷い、最早これまでと切り合い、自刃して果てた者がいました。
これを哀れに思った当時の村人達は、この亡骸をねんごろに供養し塚を築きますが、それがこの供養塔の辺りであったのだと言われています。
もともとは小さな石碑でしたが、明治31年に建て直されて現在に至ります。
今ではその言い伝えも絶えて久しく、また現地には説明看板などもなく、ただただ手入れもされず雑草が生い茂るばかりで、この石碑がなんであるのかすら分からないような状態です。
いま、ヒグラシの奏でる悲し気な音色の中で、雑草に埋もれるようにして残された慰霊塔に手を合わせるとき、かつてここで絶望の果てに味方同士で切り合い、または自らの腹をかき切った武将たちの断末魔の声が聞こえてくるかのようで、ここにも歴史というものの無情さをひしひしと感じるのです。