神奈川県西北部のターミナル駅である橋本駅の北口を出て、すぐ西側に細い路地が続いています。
位置関係を文章で説明するのも難しいので地図を見ていただきたく思います。
この路地は 駅近くでありながらこれといったお店なども少なく、時折駐輪場に出入りする自転車が通るくらいの細い細い道でした。
この路地の片隅には、一抱えくらいの石碑がひっそりと残されています。
表には「橋本駅設置に関するゆかりの処 記 相澤」とのみ陰刻され、この石碑についての説明看板なども皆無であるために、通りかかる人たちの中でこの石碑に向けて足を止める人はほぼ無しと言ってもいい状況です。
もしかすると、毎日前を通っていながらこの石碑に気づいていない人もいるのではないか、とすら思わされます。
この石碑について調べてみたら、この石碑の期限は明治時代までにさかのぼるそうです。そう、まだ横浜線が開通していなかった頃の話です。
明治時代の日本といえば、それまでの鎖国体制を脱却して列強の西洋諸国に追いつけ追いこせ、と国を挙げていた時代です。
当時、日本が世界に誇る特産品のひとつに絹がありました。
カイコのマユから糸を取り、さまざまに加工した美しく品質の高い絹を輸出することによって日本は多額の外貨を稼ぎ取ることに成功し、日露戦争を勝利に導いた連合艦隊の戦艦や、日露戦争の旅順要塞攻略に活躍した大砲なども絹を売って稼いだ外貨で購入したものが多かったようです。
現在の横浜線も、もともとは現在の八王子、青梅、甲府、果ては長野県や埼玉県、山梨県といった絹の生産地で作られた絹をいちど八王子に集め、さらに小机、長津田、相模原などの絹生産地の絹も合流させて横浜港に輸送するために作られた路線でした。
現在もJR町田駅近くの駅前公園には「絹の道」のモニュメントが建てられているほどです。
もともと、横浜線建設が計画された時には橋本駅を作る計画はなく、近くの相原駅のみでした。
しかし橋本に住む里人たちは「橋本には平地が多い。この地に駅を作ることは、必ずしも将来の発展に繋がる」との熱い希望を胸に、関係各所に陳情して回ったといいます。
この地元住民の要望によって、陳情があきらめる事なく続けられて、ついに駅の誘致に成功しました。
そのための話しあいが再三行われたのが、この石碑がある場所だったという事です。
以前はもっと大きく、立派な石碑が建っていたといいますが、時代の流れと橋本駅前の発展により、現在残されているのは小さな石碑となっているのです。
この石碑に足を止める人は今や皆無と言ってもよさそうな状況ですが、この界隈を歩く人たちは、そのほとんどが橋本駅を利用されているのではないかと思います。
もし、このブログを読まれた方でこの路地に行く機会がある方は、ちょっと足を止めてこの石碑に向き合ってみて頂きたいと思います。
その中に、かつて地元の発展と経済の振興の為に多大な努力をされた先輩たちの、かつての息遣いが感じられるやもしれません。