横浜駅の喧騒を抜けて浅間下交差点まで行き、三ツ沢公園に向かって原付を走らせる。
道はすぐに登り坂となり、連続した急カーブを勢いよく登っていくと、右手には自動車教習所の練習コースが広がっている。
練習コース脇の路地を進んでいくと、二輪教習の待合室があり、さらにその先に進むとやがて階段に突き当たる細い路地になる。
(この道は教習所の敷地ではなく公道である)
その突き当たりに近いところに、一段高くなったところに石碑が一基だけ立てられ、かつては階段もあって、この石碑の近くまで登ることができたのだろう。
現在は青い手すりの所は階段ではなくなり、けっこうな高さもあるので登ることは難しくなっている。
この石碑には、飛鳥田横浜市長(当時)の揮毫による「前方後円墳之跡」という陰刻がなされて、かつてここに前方後円墳があった事をわずかに偲ばせているのである。
この前方後円墳は軽井沢古墳ともいい、帷子川北側の台地上に位置し、昭和40年(1965年)に発掘調査が行われた。
全長26.5m、前方部は幅16m・高さ2.3m、後円部は直径19.5m・高さ2.9mと説明版にはあり、分類は前方後円墳となっているが前方部は小さめで帆立貝型古墳のようにも見え、その特徴は北側8キロのところにある綱島古墳にも似通っているように思えてくるのである。
墳丘には2カ所の埋葬施設があり、第1に後円部の中央に横穴式石室が作られ、その材質は砂岩の切石を積み上げたもので、耳環や水晶の切子玉が出土したという。
第2には前方部を上から掘り下げて砂岩の切石を組み敷いた竪穴式石室が作られ、こちらは後から追葬されたものであろうか。こちらからは鉄刀、刀子、ガラス小玉、須恵器が出土したとされる。
遺物から、この古墳は7世紀末に築造された横浜市内では最末期の前方後円墳であり、それまで不明であった7世紀末の前方後円墳について貴重な歴史的資料を残した、と説明板に記載されているのである。
これほどまでに歴史的意義があったと力説されている軽井沢古墳であるが、現在では「前方後円墳之跡」の石碑を残すのみでその面影は無く、わずかに石碑背後に残ったうっそうとした茂みがわずかに往時をしのばせているのである。
この台地から望む横浜の街は遠くに平沼のガスタンクと、その脇を走る相鉄線が見えて、それは現代の横浜市民にとっては何の変哲もない日常の風景であるのだが、かつての権力者がこの古墳に葬られた当時はこのあたりは海の幸も豊富な入江であったのだろう。
いま、この古墳のあとに立って遠くに横浜の住宅街をのぞむとき、かつて眼下に広がっていた大海原と海に寄り添って生きる人たちの生活の風景がよみがえるようで、また千数百年にわたってこの地から横浜の街を見守ってきた古代権力者の思いが何やらつたわってくるようで、この長い歴史の中の一瞬をともにできる事への喜びを感じずにはおれないのである。