JR横浜線の十日市場駅と長津田駅の中間あたりは今となっては近代的な住宅地が広がる一角ではあるが、この線路沿いの坂には名前が付けられた古道も多く、この「泣坂」もその一つである。
この坂の途中にはきちんと「泣坂」と書かれた案内柱がたてられているが、その柱には泣坂のいわれや由来などの説明はなく、ただこの場所の地名のみを淡々と伝えている。
この「泣坂」は、かつて処刑場に向かう罪人と、その罪人の家族がすすり泣く声が絶えなかった頃からつけられた名前だとの由来が地域で口伝されており、現在でもその名残はわずかに残されているという。
ここからしばらく歩いたところに児童公園があり、その奥には一目で塚とわかるようなこんもりとした土盛りが築かれているのがわかる。
一見すると何の変哲もない塚のようであり、それは古墳のようでもあり、また中世に流行した富士信仰に見られる富士塚のようでもある。
塚の真ん中には頂上に上るための階段が据えられており、その上には容易に上ることができる。
その頂上には「昭和六十年 九月 二十日 有志建之」なる一基の石碑が建てられており、その表面には「為 餅塚関係鎮霊一切菩提也」などと陰刻されているのが見てとれる。
かつて、ここには祠が建てられていた。
しかし、だんだん祠が朽ちてきた昭和の終わり頃、有志が集まって建てたのがこの石碑だという。
しかし、昭和が終わって30余年も経過した現在となっては、誰が建て、誰が管理しているかについては行政でも把握できていないという事である。
現代では、この塚は餅塚と呼ばれ「お仕置き場であった」と言い伝えられており、泣坂の由来と共に地元の中学校の地域授業で取り上げられたりもしているという。
しかし、時代はたち、確かな文献も口伝も徐々に失われ、正確な史料も皆無に等しく、あくまでも民話の域を出る事はない中で、この泣き坂と餅塚の民話は、今なお後世に語り継がれて、この閑静なニュータウンに生きる人々の心に息づいているのである。