みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

三増峠合戦の悲哀を伝える 首洗い池と浅間神社、そして馬塚(相模原市)

神奈川県の北西部、相模湖と津久井湖を結ぶ相模川のほとりは山深いところです。

その光景は、山々の合間に新しい家と古い家が混在した神奈川県に多く見られる新旧折り重なった光景でもあります。

 

そのような街を通る主要な道路のひとつに国道412号線がありますが、内郷小学校のところから250メートルほど東、寸沢嵐バス停のところに「首洗池」という池が残されています。 

 

f:id:yokohamamiuken:20201023101253j:image

 

今となっては観光地としても忘れられたような状態なのか、うっそうと木々が茂ってしまい、池なのか茂みなのかすら遠目からはよくわからないありさまです。

池のほとりに立てられた看板もすっかり古くなり、今では文字も消えかかったままになっています。

 

f:id:yokohamamiuken:20201023101337j:image

 

この辺りは昔から反畑(そりばたけ)と呼ばれていますが、その反畑については江戸後期に編纂された一大地域資料である「新編相模国風土紀稿」、津久井縣 毛利庄 寸澤嵐村の項にこのように説明されています。

 

反畑

街道の南傍にあり。一区の麦田なり。其間に首塚三あり、一は周匝七八間。高一丈餘。上に浅間祠を祀る。松及び雑木叢生す。其二は周匝二三間。高七八。甲陽軍鑑。反畑を。曾利畠に作。武田信玄。小田原の諸将と。三増峠の戦に。勝利を得て。打取所の首級を。此所に於て。実験に備うと云伝ふ。甲陽軍鑑に。云北條衆の備所に。栗澤。フカ掘などと云。切所ありて、味方とくすたる働き。自由ならず。其上後ろよりかかられ混乱して。がけへ飛おり。中津川原をわたり大方半原山へ迯上る。敵を討捕。其数雑兵共に。三千二百六十九の頸。帳を以。東道六里此方。そり畠と云所に於て。勝鬨を執行ひ。都合四十日の御働きに。北條家をしづめ。駿河を治らるる。・・・云々・・・

(カタカナを平仮名とし、漢字を一部現代の漢字に変えています)

 

この池には古い言い伝えが残されています。

現地に残された比較的読みやすい説明看板と、「新編相模国風土紀稿」の内容を照らし合わせながら振り返ってみましょう。

 

f:id:yokohamamiuken:20201023101246j:image

 

永禄12年10月、武田信玄北条氏康が戦ったのが有名な「三増峠の戦い」です。

武田信玄が関東へ侵攻して甲州へ帰るさなか、愛甲と津久井の境界である三増峠を越えようとするところで滝山城主であった北条氏照が率いる2万の軍勢が襲い掛かったものの、山岳での戦闘にたけた武田軍はこれを見事に打ち破ったのです。

 

勝利に沸いた武田軍の本隊は、三ヶ木から落合坂を下って沼本の渡しへ、別動隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下って道志川を渡りつつ、この地に入ったとされています。

この2隊の武田軍はこの地に陣を築いて戦勝の儀を執り行なったとされています。

 

この時の様子は江戸時代に編纂された一大歴史史料である「新編相模風土記」に克明に記録されており、それによれば、この反畑という地で武田信玄が行った首実験の数は3269にまでのぼったとされており、それらの首はべったりとついた血糊や泥をこの池で洗い清められ、首実検の地に引き出されたという事です。

 

f:id:yokohamamiuken:20201023101304j:image

 

さて、この首実検で改められた首はどうなったのでしょうか。

説明看板には「武田軍は反畑において首実験を行った後 浅間の森に埋葬して塚を築き、社を建てたといわれる。この社が浅間神社である」とされています。

「新編相模風土記」にも全く同じ記述があり、この浅間の森というのは首洗いの池より南西350メートルのところにありました。


f:id:yokohamamiuken:20201023101256j:image

 

「この先は通り抜けできません」という黄色い看板の脇、茂みの中にかくれるようにして看板が立っています。

文字は故意にはがされて、うっすらと「神社」の文字が浮かび上がっているのが、かろうじで写真でも分かると思います。

肉眼で見ると「浅間神社」と読み取ることが出来ますが、今は神社はなくなってしまったようです。

 

f:id:yokohamamiuken:20201023101321j:image

 

この先、フェンスに沿うように入っていき、右手に折れて坂を上がった丘の上に浅間神社があったといいます。

このまま入っていくと、奥は畑になっていますがその畑の手前をフェンスに沿って右に曲がっていきます。


f:id:yokohamamiuken:20201023101325j:image

 

ここが右に曲がったところ。

道は完全に藪に埋もれていて、この先に進む気には到底なりません。

古地図や地元の方の証言から、かつてこの先に浅間神社があったそうです。

 

2015年に公開された先達様のサイトによれば、こちらで間違いはないようですが、浅間神社は今はなくなってしまい久しいのでしょう。

この、訪れる人の絶えたアプローチ路はあまりにひどいヤブのために、この先に行くのはあきらめました。

いま、この浅間神社はどこへ行ってしまったのでしょうか。


f:id:yokohamamiuken:20201023101333j:image

 

また、ここから少し離れたところに気になる塚がありました。

中央のコンクリートの構造物の先、左手にこんもりとした塚があります。

その頂上には小さな石碑が建てられており、ちょっと気になったので見に行ってみました。

f:id:yokohamamiuken:20201023101250j:image

 

こんもりとした立派な塚。

この上には黒御影石の石碑が建てられています。

その石碑には、「馬塚 馬数千頭大悲生所善義起菩提心と陰刻され、たくさんのニンジンがお供えされていました。

 

この「〇〇大悲生所善義起菩提心」というのは、調べてみたら日蓮新宗教立正佼成会で動物に用いている戒名であるということです。

立正佼成会についてはあまり詳しくありませんが、一般的な仏教の世界では馬は畜生といって人間とは違う扱いをするなか、このようにきちんと動物にも戒名を与えて供養するという考え方は素晴らしいと思います。

f:id:yokohamamiuken:20201023101300j:image

普通の飼い方であれば、仮に馬を飼っていたとしても数千頭を供養するという事はなかなかないと思います。

ということは、この「馬塚」もこの三増峠合戦で犠牲となった馬を葬ったところでしょうか。

 

この首洗い池、浅間神社については数名の先達様が調査されてブログに掲載されていますが、この馬塚についてはあまり触れられていなかったので新しい発見でした。

 

浅間神社が失われてしまったのは残念極まりないことですが、このような静かな里にも血なまぐさい戦闘の記憶がいまだに残っていることに驚きました。

 

武田家と北条家の戦いである三増峠合戦は歴史ファンの間では有名な合戦ですし、この痕跡を求めて訪ね歩く人も少なくはないと思います。

 

首洗い池、馬塚、そしてできる事ならば浅間神社の跡地も併せて、もう少しきちんと整備されて史跡として公開されても良いのではないかと思いつつ、秋晴れの中原付を走らせて寸沢嵐を後にしたのでした。