横浜の山手のあたり、いわゆる中村川から南側の一体は、古くから文明開化の先がけを担った外国人たちが住んでいた地域であり、また多くの坂や通りには名前がつけられて親しまれている。
そのうちのひとつに「地蔵坂」というものがあるが、これは坂の途中に「濡れ地蔵」と呼ばれたお地蔵さんが祀られていたことに由来しているのである。
現在ではお地蔵さんも地蔵堂もなく、地蔵堂のあった場所はマンションへと変わっており、その面影はまったくない。
そのお地蔵さんは、今となっては坂のふもとにある中村川にかかる「亀の橋」という橋のたもとに、真新しい台座をいただいて鎮座されており、道ゆく人々を静かに見守っているのである。
このお地蔵さんは実は2代目であるという。
もともと古くなっていたお地蔵さんは関東大震災により倒壊したので、地域が一丸となって復興させた町のシンボルであったのが現在の「濡れ地蔵」であったという。
この「濡れ地蔵」の由来について、詳細な記録には乏しいものの、かつて根岸に住んでいた娘が遊郭に売られ、そのあまりの辛さに逃げ出して海に身を投げて死んでしまった。
そのとき、海に行くはずもないお地蔵さまが海水に濡れ、海藻がからんだのが「濡れ地蔵」の由来だという。
哀れな亡者の手を引いて極楽浄土へと導くという地蔵信仰は、海に身投げをした哀れな娘を救うべく、地蔵みずから海中に身を投じたという言い伝えを呼び、それが現実の姿となったのが濡れ地蔵尊なのであろう。
この「濡れ地蔵」は、地蔵坂をはさんで不動堂と対をなすように鎮座されていた様子が、現地に張り出されていた昔の地図に見ることができる。
現在はマンションや一般住宅にとって代わられた家々も、それぞれの商いを営む商家であり、このあたりは商店街としても機能していたのであろう。
さて、神奈川新聞の平成13年(2001年)5月9日号には、地蔵尊移転についての顛末が紹介されている。
要約すると、今の地蔵坂は現在は綺麗に整備されて、ずいぶんと歩きやすくもなっているし車通りも多くなったが、かつては登るごとに息きらすような急坂であり、また整備された後もお年寄りにとっては登り下りが辛いことには変わりはなかった。
次第にお世話をする人が減っていき、しまいには荒れ果てていたものを哀れに思った地元有志が新たに地蔵講を開き、誰もがお参りしやすい坂の下へと移すことを決めた。
それが、記事が掲載された平成13年(2001年)の4月9日のことだという。
これが現在の地蔵坂の下にある地蔵菩薩像で、今では綺麗に管理され、掃除も行き届いて、時折通りかかる人が手を合わせていく姿も見られた。
忘れ去られ、荒れ果てていた地蔵尊は見事に復活を遂げたのである。
では、その地蔵尊と対をなして建てられていた不動堂はどこへ行ったのか。
その不動堂は、今なお地蔵坂の中腹、坂から一歩入ったところに残されており、密かに道ゆく人々を見守っているのが見て取れる。
今となっては訪れる人も往時に比べて減ってはいるであろうものの、ブロックで作られた不動堂にしっかりと守られ、崩れかけた階段をときおり人が昇ってきてはお世話をしているようである。
左右に両童子を従え、両手にはしっかりと三鈷剣(魔を退散させ、かつ悩める人々の煩悩や因縁を断ち切る)と、羂索(けんさく。悪鬼を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛り、吊り上げてでも救い出すための投げ縄)を握りしめ、背後の火焔は色鮮やかに燃え盛り、この街で暮らす人々を見守っているかのようである。
いま、時は流れて時代は平成から令和へと変わったが、ゆるやかなる中村川の流れは変わる事なくお地蔵さまのもとをゆっくりと流れており、それはまるで途切れることのない時の流れを映し出しているかのようで、ここにも人の世の栄枯盛衰がしみじみと感じられるのである。