上大岡駅前の鎌倉街道から分岐する笹下釜利谷道路をくだると、日下小学校の向かいに細い路地があり、かつて笹下城の堀として機能した笹下川に差し掛かる。
その笹下川にかかる曲田橋を渡り、坂を登ったところに梅花山成就院という古刹があり、宗派は浄土真宗である。
この山門をくぐれば左手にはひっそりと句碑が残されているが、今となっては拝む人も足を止める人も少なくなったこの句碑こそ、太平洋戦争の悲劇を今に伝えている鎮魂の句碑なのである。
この句碑には、
猛り鵙
松籟にいま
鎮まりぬ
の句と、「林火」という号が刻まれ、その建立は昭和23年、建立者は雑色有志一同となっており、戦死者とされる名前が多く刻まれている。
雑色というのは、この地域の地名であり現在では町内会の名前にその名残を止めるに過ぎないが、かつて戦国時代に武士団を色分けする時に、そのどの色にも属さない雑兵や小者を雑色と呼んだ場合があり、そこから雑兵や下級武士が集まる場所を雑色と呼んだ、と聞いたことがあるが、ここにも戦国時代には北条氏の拠点である笹下城という城があったというから、この雑色という地名もその頃の名残であろうか。
この句碑は、表向きこそ句碑として扱われているものの、その実態は太平洋戦争で戦没した戦死者の慰霊碑であり、よく見れば大きな碑に21名、小さな碑には5名の名が刻まれているのが見て取れるのである。
句の中の「猛り鵙(もず)」は戦死者をさしているとの事であるが、本来ならば地域から出征した兵士が戦死すれば忠魂碑を建立して祀るのが常であり、近くの天照大神宮などにも忠魂碑が残されている。
しかし、この句碑が建立された時には日本は進駐軍の占領下にあったために、歴代の戦争のたびに各地に建立されてきた忠魂碑を建てることは禁じられていた。
そこで村人たちは知恵を絞って、なんとか忠魂碑の代わりになるものが欲しいと、俳句の碑に見せかけた鎮魂碑を建立することとしたのである。
碑文にある「林火」というのは横浜でも当時五本の指に入ったという高名な俳人であった大野林火のことであり、この趣旨にいたく感動した大野林火はさっそくこの句を詠んで、鎮魂の願いを後世に伝えることとしたのだという。
「季節は秋に変わり、荒々しかったモズが松の枝で鳴いている。
秋風が松の枝をゆらして爽やかな音を奏でると、モズも鳴くのをやめたのだ。
若き御霊も、なつかしい故郷で安らかに眠りますように」という深い意味が込められているのであるという。
いま、訪れる人もまばらな住宅地の寺に建つ句碑の前で手を合わせるとき、祖国のために、好むと好まざるに関わらず勇敢に戦って散っていった勇士たちの望郷の思いと、語り尽くせぬ苦しみの中で戦火に呑まれていったわが子を思う親たちの思いが伝わってくるようで、ここにも戦争の悲しさと時の流れの無情さをそくそくと感じるのである。