海老名駅の東側、相模国分寺跡の近くの交差点の脇に海老名市消防団の第一分団の詰め所があります。
ここでは、普段はサラリーマンや自営業などで働く方々が地域の防災を担う拠点として、日夜訓練や消防車の手入れなどをされています。
いつもお疲れさまです、と頭が下がる思いです。
その脇には、何基かの石塔が建てられています。
この一つ一つが、いつごろからこの地にあるのかは詳らかではありません。
ただ、これらの石塔のうち一番右端の石塔は、この地域では御法塔様と呼ばれて大切にされています。
その御法塔様は植え込みの中に半ば埋もれるようにして建っています。
中央に南無妙法蓮華経のお題目を刻み、その下には法界萬霊と刻まれています。
これだけを見てしまうと無縁仏の供養塔か何かかな、と思ってしまいます。
しかし、注意して側面を見てみると右側面には「慶応二年十二月廿日命日 聞妙院日悟信士菩提」、左側面には「大正三年十一月吉祥日 発起人 田島某」などと陰刻されているのが見て取れます。
すなわち、幕末再末期の慶応2年(1866年)12月20日に亡くなった「聞妙院日悟信士」なる人物の冥福を弔うために建立されたという事が分かるのです。
この慰霊碑について地域資料を探してみると、以下のようなお話が出てきました。
時は幕末末期の慶応2年(1866)年12月19日の深夜の事です。
現在の海老名中学校のあたりにあった龍峰寺(現在は移転)に、一人の盗賊が忍び込みました。
金目のある仏具などを盗んで金に変えようとしたのですが、たちまち和尚さんに見つかって大騒ぎとなってしまいます。
家人や寺男が灯りを持って探し回る中、この盗賊は何も盗むことも出来ずに寺の中に隠れて逃げる機会をうかがっていました。
しかし、現代と違って当時のお寺というものは役所のような役割も持っていました。
今の戸籍にも近い「人別帳」を持つだけではなく、国境を越える際に必要な「往来手形」などを発行するようなこともあり、文字通り村の中心であったのです。
これは村の一大事ということで、騒ぎは村中に広がって村をあげての大捕物になってしまったのです。
しかし、どこもかしこも警備を厳しくしていては盗賊は出てこない。
どこかにスキをつくって、そこに盗賊をおびき寄せようという事になり、今の海老名中学校の運動場の土手下、国分坂下の桑畑の中で待ち伏せをしていたのです。
この考えは見事にあたり、盗賊はこの土手に人影が見えないのを確かめると、一目散に駆け下りてきました。ここぞとばかりにカマを持った村人が出てくると盗賊はぎょうてんし、瞬く間に取り押さえられてしまったのです。
名主をはじめ百姓代、組頭の村方三役は、その盗賊をどう裁くかと協議しましたが、普通の農家ではなく神仏の家たる寺に忍び込むなどとうてい許される事ではない、と極刑にする事になったのです。
しかし、翌朝には盗賊は後ろ手に縛られたまま、大山街道を引き回されていきます。
盗賊は「どうぞお助けください。どうぞお許しください」と涙を流しながら沿道の見物人たちに懇願したといいます。
やがて上郷と河原口の境にあった「おんぞう川」(耕地整理のため消失)のあたりまで来た時、「お前の罪は許してやろう。その代り、二度と国分の地を踏むな。分かったらどこへなりとも行くがよい」と縄を解いたのです。
盗賊は喜んで深々とお礼をした瞬間、隠れていた男が引き金を引きました。
実は、このだまし打ちはもともとから計画されていた事だったのです。
上郷には、かつて「大釜」という沼がありました。その脇の、枯れた芦原の中に鉄砲撃ちを二人隠れさせ、盗賊を解放すると同時に撃ち殺させたのです。
鉄砲の弾丸は見事に盗賊に命中し、盗賊は「おのれ、だましたな」と叫びながら悶絶し息絶えたのだといいます。
盗賊は、近くの近くの村の神官の次男だったそうです。
そのなきがらはコモという、ムシロのようなものに巻かれて相模川へ投げ捨てられて、事件は幕を閉じたかのように思われました。
しかし、この時を境に国分地区は災難が続きます。
特に火事の被害がひどく、一番の大火は明治43年(1910)3月18日のことで、役場や駐在所をはじめ、薬師院など13戸が灰燼に帰したのです。
これにより聖武天皇直筆の額など貴重な古文書が灰になり、それからも村にはよくない事ばかりが起こるのでした。
そこで、村の信心深い人が現在の藤沢市用田のあたりにあったというお稲荷様にお伺いを立ててもらいました。
すると、明治時代に入る直前に「大釜」でだまし討ちにした盗賊のたたりであるから、慰霊碑を建てて霊を慰めるようにということで大正3年(1914年)11月、村の有志で中新田の海源寺の日洽和尚を呼び「聞妙院日悟信士」の改名をいただき、碑を建てて盗賊の霊を慰めたという事です。
もともとは、この碑は国分寺が所有する堂坂の右側に建立されていたといいます。
時が流れて、坂の下に移されたものの、そこにサイレン塔が立ってしまい、誰からも忘れられて草に埋もれていたのを、昭和48年(1973年)に今のところに移したのだという事です。
この碑の裏面には、当時の世話人たち20名の名が読み取れます。
この碑が作られてからというものずいぶん月日が経ちましたが、今なおその子孫たちにより大切に守られ、供養されているという事です。
現在、この碑があるところは交通量が多い交差点で、たくさんの車が碑のことなどには気づかずに通り過ぎていきます。
この寺に忍び込んだ男は、いったいどのような気持ちでこの地を見つめ続けているのでしょう。
初夏の爽やかな晴れ間の中、盗賊とはいえ何も盗る事も出来なかったのに寒い街道を引き回されたうえにだまし討ちにあい、極寒の相模川に投げ込まれた男のことを思うとき、その哀れなる最後の姿が目に浮かぶようで、思わず涙をながさずにはおれないのです。