海老名駅から歩いて15分もかからない住宅街の中に、通称「お薬師様」と呼ばれ、親しまれている相模国分寺という高野山真言宗の古刹があります。
これは寺伝によれば、天平年間に聖武天皇の御勅願によって建立された「相模国分寺」そのものであるとされ、行基菩薩自らが7か所の精舎を建て、本尊である薬師如来ならびに日月大士の像を彫刻されて祀ったのが起源であり、創建の時代から永い間かけて衰退と復興を繰り返してきたお寺です。
さて、この国分寺は現在はこぢんまりとして実に整ったお寺ですが、その入り口には山門がわりの石段があります。
この下にはかつて大山街道が走っていて、現在の相鉄線さがみ野駅あたりから海老名駅を過ぎ、相模川を渡る重要な街道でした。
かつて、この国分寺の境内には大きな白椿の木があったといいます。
毎年毎年、白く美しい花を咲かせるそのさまは実に見事で美しく、大山参りの旅人などは思わず足を止め、その美しさに心を落ち着かせ、その香りを楽しんだ事でしょう。
ある日、この辺りの門前に何軒かの茶店がありました。
毎日夕暮れになると、見慣れない美しい娘が現れてはお茶を飲むのです。
その姿たるや、つややかな黒髪をしっとりと垂らし、絹のような透き通った肌には薄手の涼し気な着物をまとい、どこかしら気品にあふれた良い香りを漂わせていました。
しかし、この娘がどこの誰なのか、誰一人として知る者はいません。
ただ、この娘が立ち寄って茶を一杯飲むだけで、その茶店は瞬く間に商売繁盛して栄えていったのです。
そして、国分寺の見事な白椿の花が咲くころになると現れ、みんな散ってしまうころはぱったりと来なくなる、という事が何年も続いたのです。
それから数年たった春の日、村の若者がこの娘に興味を持ち、人知れず後をつけていきました。
すると、国分寺の石段の所まで来たところで、まるで煙のように娘の姿が消えてしまったのです。
そこで、次の日には糸を通した縫い針を用意しました。
娘に道でも聞くふりをしながら近づき、さりげなく着物のすそに針を通しては、何も知らぬふりをしてその場を離れたのです。
あくる朝、若者がその糸をたどったところ、驚いたことに針は国分寺の白椿の上のところ、美しく咲いた白椿の花びらに刺さっていたのです。
その娘が白椿の精であったことが噂となり、その娘を一目見ようと多くの見物人が詰めかけたりもしましたが、その娘は二度と現れることはなかったそうです。
時は流れ、今でも石段の脇には椿の木が植えられています。
しかし、当時から続く木であるとすればあまりにも若くて細い木のように思います。
この椿が伝説を呼んだ椿の子孫であるのか、それとも新しく植えられたものかは知る由もありませんでした。
きっと、この椿は最近になってここに根付いたものでしょう。
この時は季節がら、この椿が白椿であるかどうかは分かりませんでしたが、こうして今なおここに椿の木が植えられているというのも偶然ではないと思います。
ここに、新たな椿の精が海老名の街と人たちをこれからも見守り、ますます繁盛させてくださいますようにと願いを込めて、椿の艶やかな葉を撫でたのでした。