伊豆箱根鉄道の井細田駅前の通りを西に進むと、程なくして小田急線の足柄2号踏切に差し掛かります。
この辺りは平和な住宅地で、この踏切も一見するとどこにでもありそうな踏切です。
この踏切で列車が通過するのを待っている時、踏切の脇に小さく区切られたところがあり、黄色い花束が供えられているのが目に入りました。
このような所にあるのは、だいたいが鉄道事故の慰霊碑であると相場が決まっていますが、原付を止めて詳しく見てみるとやはりその例に漏れず、「供養塔」と陰刻された小さな石塔がたち、誰かが供えた新しい花のみが風に揺れていました。
これは何の事故であろうかと神奈川新聞の縮刷版や運輸省(当時)の資料を調べてみるも、なかなか公式な記録がありません。
ようやくネット上で見つけたのが
1950年12月20日 18:40
神奈川県小田原市
踏切横断時の確認不足により列車と衝突
乗合 死亡3 重軽症37
という、簡素なものでした。
小田原市には踏切がたくさんありますので、正直この記載がこの踏切のものであるかどうかは断言ができません。
ただし、脇に建てられた「事故者氏名」の石板には、「昭和二十五年十二月二十日 自動車事故により死亡す」と刻まれ、死者7名の名前と年齢が刻まれています。
さすがに、ここまで年月日が一致する大事故もそうそう起きないでしょうから、まず同一のものと見て間違いはないと思われますが、資料では「死亡3 重軽症37」となっているのに対し、こちらの石碑は7名分の名前が刻まれていることから、重軽症37名のうち4人が後に亡くなられたのだと推測されます。
乗合とは、当時の乗合自動車。現代の言葉で言うならばバスだと思います。
それがバス会社の運営するバスなのか、どこかの会社の社員送迎用意のバスなのかは分かりませんが、おそらく「乗合」とはバス会社が運営する「誰でも乗られるバス」を指すと思います。
この慰霊碑については資料があまりにも少なく、想像に頼るしかないところも大きいのですが、もし乗合バスの安全確認不足により7名の方の命が奪われたとしたら、それは大惨事です。
この家族の悲しみはいかばかりだったでしょうか。
いま、夕暮れも近づき日も傾きかけた初春の寒い日に慰霊碑に手を合わせていると、すぐ横を何事もなかったかのように通り過ぎる小田急線の列車の音がこだまし、かつてここで起きた凄惨な事故と、その後に残された家族たちの無念が伝わってくるかのようです。