神奈川県の屋根にして水ガメであり、神奈川県西部の大部分を支配する丹沢大山と箱根の山々は、東京から見えるほどの近さでありながら木々はうっそうとし、巨石の転がる清流には水遊びをする子供らの歓声が響き渡る自然豊かなところである。
その丹沢の奥深く、谷峨の駅のあるところから津久井湖をすぎて西丹沢と呼ばれるところは清流の流れに覆いかぶさるような山々と、その斜面にへばりつくようなキャンプ場の炊煙が漂うところである。
この辺りは手軽にキャンプが楽しめるとあって、みうけん家もお気に入りの場所であるが、そのメインの道路となる県道76号線をずっと登っていくと、わきに入っていく道があり、その先は「時之栖」というホテルがある。
そのホテルの手前の開けたところに「昭和47年7月 集中豪雨犠牲者慰霊碑」が見えて来るのである。
この石碑には由来が記入されており、それによれば
昭和四十七年七月十二日未明
清水、三保地域は未曾有の集中豪雨に襲われ一瞬にして
死者 行方不明 九名
家屋流出全壊 六十五戸
田畑の埋没流出 三十三ヘクタール
道路橋梁農道等の決壊 一〇八箇所
等、山北町はじまって以来の大惨事をもたらした。
ひたすら九名の霊を慰めつつ当時をしのび慰霊碑を建立す
昭和四十八年八月一二日 山北町長
とある。
うっそうとした森林に佇む慰霊碑は、もはや訪れる人もまばらであるが、誰かによってきれいに掃き清められておりいまだに大切にされているかのようである。
少なくとも、この慰霊碑ができたときは山北町始まって以来の第三次であったのだろう。しかし、1999年になって13名の死亡者を出す、しかも未然に充分に防げたはずの玄倉川水難事故が起きてしまい、この悲しい記録は更新されてしまうことになるのである。
今、家族連れの楽しげな声がこだまする山北町の静かな川べりも、ひとたび雨が降れば濁流となり何もかも流してしまう川であることは決して忘れてはならないだろう。
このあたりでキャンプをよくしているみうけん家にとっても、これらの事故は決して忘れてはならない教訓なのであり、はるかに流れる清流の影には多くの命が飲み込まれていったことを思い出すとき、思わず手を合わせずにはいられないのである。