JR相模線の海老名駅と入谷駅の中間あたりに、蛭沼踏切という踏切があります。
蛭沼・・・
聞くだけでウズウズというか、鳥肌が立ってしまう名前です。
みうけんはヒルが大嫌いです。
ヒルに罪はないんですし、ナメクジやゲジゲジやムカデを見てもふーん( ´_ゝ`)って感じなんですが、とにかくヒルだけはダメなんです。
HIRUとタイプしているだけでも背筋が凍るくらい、キライです。
今回は、そんな身の毛もよだつ「蛭沼」のお話です。
このあたり、いわゆる海老名耕地というところは沼が多いところでした。
これらは蛇行を繰り返した相模川の跡で、国分の尼寺の下は今なお薄暗い下り坂になっています。
これはいわゆる、相模川の河岸段丘の一部であり、坂を下ったところにも蛭沼という沼があったそうです。
名の由来は言うに及ばず、毎年夏になれば沼いちめんに蛭が繁殖し、いつも水面を泳ぎ回っていたという事からついた地名です。
やー、絶対住みたくないですねぇ(地元の皆さま本当にごめんなさい)
しかし、この沼はとても浅くて安全だったため、村の子供たちの格好の遊び場でした。
岸から仕掛けを落として雑魚をとったりしていましたが、少しでも手を水につけようものなら寒気がするほど蛭が集まって吸い付いたそうです。
蛭は一度吸い付くとなかなか離れてくれません。
ヒルジンという、血液が固まらないようにするものを注射してから血を吸うため、無理やりはがしてもなかなか血が止まらず、いつまでも流血したといいます。
ある日、弘法大師がこのあたりを旅していた時のことです。
弘法大師は、ほんとうにいろんな所に旅をされているなと感心しますが、それはさておき。
この辺りの村の子供たちが、足からダラダラと血を流しながら楽しそうに遊ぶ姿を心配された弘法大師は、いったい何があったのか尋ねました。
「蛭が吸いついたんだ!」と口々に答える子供たちの足には、血をたっぷりすってイチジクの実のようにふくらんだ蛭がついたままの子供もいました。
弘法大師がさっそく経文を唱えると、不思議な事に蛭はポロポロと落ちてどこかへ逃げていきましたが、子供たちの足から流れる血はなかなか止まりません。
そこで、弘法大師は近くから血止め草を摘み取ってきては、葉をもんで傷口に貼っておけば血が止まることを教えたのです。
子供たちは先を争うようにこの葉をつんで、足から流れる血は綺麗に止まったという事です。
ここに出てくる血止め草は、地面に這うようにして生える、丸い葉が特徴的な草で、田んぼの脇などに今でも普通に見ることが出来ます。
さて、カゴの中にたくさん入れられたウナギを見た弘法大師は、それを売ってくれないかと子供たちに申し出てきました。
坊さんがウナギなど食べてよいのかと子供たちは驚きましたが、弘法大師はウナギを食べるのではなく、蛭を食べてくれるようにお願いするのだといいます。
半信半疑な子供たちでしたが、小遣いになるならと子供たちは弘法大師へウナギを売り、銭をもらって大喜びで帰っていきました。
その後、弘法大師はウナギの一匹一匹に呪文を唱えて沼へ放し、その後もしばらくお経を読んでいたそうです。
それからというもの、身の毛もよだつほどたくさんいた蛭たちの姿はめっきり減って、この沼で遊ぶ子供たちも安心して遊べるようになりました。
また、ここで取れたウナギの腹からは決まって大量の蛭が出てくるので、ウナギを食べる時はハラワタは捨てる決まりになっていたそうです。
しかし、完全に蛭がいなくなったかと言うとそうでもなく、時折数匹の蛭が泳いでいるのを見かけたという事です。
これは、村人たちが蜂や毒蛇の害にあったとき、また傷口に膿がたまって腫れた時など、その毒や膿を吸い出すのに大いに役に立ったという事でした。
今では開発のためか、災害によるものか、このあたりの沼は蛭沼もふくめてすっかり姿を消してしまいましたが、この地域には今なお蛭沼の地名が残り、地元の農家などではこの伝説が語り継がれているそうです。
そういえば、昔は田んぼや沼にはたくさんのドジョウやウナギがいました。
みうけんも、子供の頃は田んぼでドジョウやウナギなどを捕まえて遊んだ記憶があります。みうけんは遊んだらそのまま逃がしてしまいましたが、ある本で「捕まえてきたウナギをさばくと、その腹にはたくさんの蛭が詰め込まれて云々」と読んだことがありますから、蛭はウナギの好物だったようです。
神奈川県には大山をはじめ、秦野、綾瀬、川崎、横浜などに弘法大師の伝説が残されています。
また全国に弘法大師の伝説が残されており、その偉大さとともに民間に浸透した伝説の数々は、このようなところでも語り継がれているのです。