鎌倉街道の鍛冶ヶ谷交差点の脇、本郷ふじやま公園のふもとにあるのが浄土真宗大谷派寺院の中村山 天岳院 長慶寺であり、草創については詳らかではないものの、もとは天台宗と真言宗を兼ねた密教の道場として、現在の大船・玉縄のあたりにあったという。
鎌倉幕府執権の北条泰時が鎌倉八幡宮寺の一切経を校合した際、親鸞上人が同席していた縁で長慶寺の住職であった超世が弟子となって浄土真宗に改めたとされ、その際に親鸞上人が自ら刻んだ聖徳太子像を与えられたという。
この長慶寺には今にも伝わる素焼きの茶碗の逸話が残されている。
戦国時代も終わって江戸時代が始まった頃、将軍徳川家康公がこの辺りに鷹狩りをしに来たことがあった。
山野を駆けめぐる鷹狩りで、すっかり喉が渇いた徳川家康公は山裾の小さくみすぼらしい草庵を見つけると馬で駆け寄り、年老いた住職に水を一杯所望したのである。
この立派な武士が誰であったのか住職には想像も出来なかったものの、貧しい草庵の一人暮らしである。
住職は「あなた様に水を汲んで差しげるような良い器がありません」と申し訳なさそうにこうべを垂れるが、家康公は器などどうでも良い、水さえ飲めれば良いのだという。
そこで住職は一番良い素焼きの茶碗を取り出して、寺の裏山から流れ出ている清水を汲んで差し出した。
家康公は水をうまそうに飲み干すと、たてつづけに二杯もお代わりし「これは実にうまい水だ」と誉めた上で、「余は将軍家康である。今日は馳走になった。ところで和尚は立派な人とお見受けするが、何故このような粗末な草庵におられるのか」と尋ねた。
住職は、その立派な武士が将軍家康公であると聞かされてびっくり仰天したが、恐る気持ちを抑えながら自分の素性を語り始めたのである。
この長慶寺は浄土真宗の寺であるが、浄土真宗はかつては一向宗ともいって北陸を中心に強大な力を持ち、織田信長をはじめとする各地の戦国大名を圧迫した。
この年老いた住職は名を実好普故法師といって、やはり一向一揆の先頭に立って戦った一人であり、親鸞上人が自ら刻んだ聖徳太子像を背負って大阪に馳せ参じ、本願寺門主顕如の長男であった本願寺教如の側近として先頭に立って戦ったという。
思い起こせば、織田信長と石山本願寺が闘った十余年間もの時間が流れていた。
その間に、織田信長に味方した北条氏によって玉縄の長慶寺は完膚なきまでに破壊されて、すっかり荒れ果てて見る影もなく、仕方なく栄区中野の現在の長慶寺のあるところに粗末な草庵を手作りして読経三昧の日々を送っていたのだという。
この話に大いに感激した家康公は慶長16年(1611年)に江戸城へ住職を招いた。
将軍職を秀忠公に譲り、すでに隠居の身となっていた家康公であったが、あの時の水のうまさが忘れられぬと言っては、再度礼を述べて住職の苦労をねぎらったばかりではなく、「ぜひ寺を再建するように」と、たくさんの寄付をされたのである。
住職は大変な喜びの中で長慶寺を再建し、さらに慶安2年(1649年)には徳川家光公より、寺領13石の御朱印状を拝領したのである。
そして実好住職は見事に再興した長慶寺の住職として里の人々から尊敬を集め、四散していた信徒も戻って、波乱万丈に富んだ五十九歳の天寿を全うして亡くなったという。
いま、この実好住職の墓石の前に膝を落とし、香華を手向けて手を合わせるとき、一向一揆の先頭に立ち、またひなびた草庵での読経三昧の日々から、時の将軍家康公に謁見し、見事に寺を立て直した実好住職の波乱の人生がにわかに思い出され、ここに時代にほんろうされながら生き抜いた人の生涯というもののはかなさを知るのである。