軍艦居並ぶ横須賀の軍港と、華やかな繁華街から山側へと入り、急峻な斜面が続く不入斗(いりやまず)の街の中に、浄土真宗の古刹である大塚山 西来寺がある。
これは弘仁年間(820〜824)年、もとは一乗寺という天台宗の寺として創建されたものであるが、浄土真宗の開祖である親鸞上人が関東巡行の帰りに小田原市国府津に立ち寄り、一乗寺の住職であった乗頓和尚との問答の結果、浄土真宗こそ真の仏法であるとして宗旨替えをしたのが始まりである。
この西来寺の門前には、弘法大師の爪彫り地蔵尊といわれる石仏が祀られている。
いちおう石仏という説明看板もあるが、その像容は磨滅はなはだしく、お顔や法衣にいたるまで鮮明とはいえず、よく目を凝らさなければ石仏であるとすら気づかないようなものである。
この地蔵尊の経緯は不詳であるが、「佐野不入斗両町ノ沿革」( 昭和17年・川島庄太郎)によると、この地蔵は現在の坂本中学校の校庭のあたり、大きな桜の木の根元にあったという。
弘法大師が一夜のうちに、または短期間で爪のみで彫り上げたという爪彫り地蔵の伝説は全国に残るが、これもそのうちの一つであろうか。
この爪彫り地蔵の前を、馬に乗ったまま通りすぎると必ずといっていいほど落馬すると伝えられ、これは霊験あらたかな地蔵として地域から篤い信仰を受けていたのだという。
しかし、明治23年、東京湾要塞を構築する軍部の意向で、陸軍要塞砲兵連隊の兵舎を造ることとなったため、この爪彫り地蔵は西来寺の境内に移され、さらに昭和18年には「阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩を境内においてはならぬ」という浄土真宗本山の指導をうけ、現在地へ移されたのだという。
この爪彫り地蔵にちなみ、江戸時代から明治9年までの間、毎年正月24日の地蔵の縁日には、かつて地蔵尊があった桜の大木のあたりから坂本村にむかう街道で草競馬が行われて多くの人でにぎわったという事である。
いま、草競馬は開かれることはなくなり、どこかひっそりとして寂しさの漂う爪彫り地蔵であるが、今なお一定の信仰は受けているようで香華の絶えることもなく、いつも新しい花が供えられている。
この表情すら明らかでない地蔵尊は、目まぐるしく移り変わる時代の流れと自らの境遇を、どのような目で見つめておられるのであろうか。
この受難続く爪彫り地蔵にむけ、深くこうべを垂れ静かに手を合わせたのである。