相模原の古淵駅の南側、東大沼2丁目というところにやって来ました。
ここの大沼神社とテニスクラブを起点として、街を丸く囲む道路が残されています。
これは、かつてここに大きな溜め池があったことを物語っています。
iPhoneのアプリ「古地図散歩」によって明治時代の地図を見てみれば、今のテニスクラブの 4倍ほどの広さの沼だったことがわかります。
昔から、池があるところには必ずと言って良いほど祀られたのが弁財天です。
弁財天はヒンドゥー教の女神サラスヴァティーに起源を持ち、神道では神様として、日本仏教では天部の一尊格として信仰を受け、芸能や歌謡、舞踊などの神様として、また全ての生命の源である水源地の守護神として、各地に祀られて来ました。
ここ東大沼2丁目の大沼神社は、その名の通りに、ここにあった沼が大沼と呼ばれていたことから自然とそう呼ばれるようになったものです。
創建は享保21年(1736年)であるとも、日本武尊の頃であるとも伝えられています。
元禄のころ、一面の荒れ野原であった相模原を淵野辺村と木曽村の村人たちが血の滲むような努力で開墾したのが、いわゆる「大沼新田」でした。
この大沼は新田のシンボルにとどまらず、水を供給し続ける大切な水源地でもあったため、その水源地を守らんとして享保21年に勧請したのが大沼神社の始まりとされています。
最初は「大沼弁財天」という呼び名で親しまれていましたが、明治期に「大沼神社」へと改称されました。
この神社には今なお不思議な伝説が残されています。
それは安政4年(1857年)の夏のこと、大きな台風によって境内の立派な木が何本も倒れてしまいました。
せっかくの大木をただ朽ちさせてしまうのはもったいない、と村人たちはただちにこの木を製材し、売って生活のたしにする事にしました。
そこで、村人が倒れた木にノコギリを当てたところ、晴れていた空は瞬く間に雲が集まって雷鳴が轟き、驚くような地鳴りが鳴り響いたのです。
驚いて右往左往する村人たちの目に飛び込んできたのは、地鳴りに合わせるようにしてむくむくと起き上がった倒木たちでした。
村人たちはただ口をあけて見ているしかなく、それまで無惨に倒れていた木は見事に元の姿に戻ったということです。
この木の噂は瞬く間に近隣の村々に知れ渡って大評判となり、連日の参詣者は絶えることがなく大変なにぎわいだったといいます。
この大沼は昭和30年代までは、満々と水をたたえ、とても大切にされていました。
まさに、この地で農耕を営んだ人々の「いのちの水」だったからです。
しかし時代は流れ、次第に宅地開発の波が押し寄せて田畑も姿を消していくと、 この大沼もあっけなく埋め立てられてしまい、跡地の片隅にはこの大沼神社だけが残されました。
今では、この神社の本殿を囲うようにして水の涸れた堀だけが淋しく残されています。
いま、こぢんまりとした弁財天の祠の前にたち、そっと手を合わせて家内安全を願うとき、かつてこの辺りに水をたたえていた大沼の光景が背後によみがえり、かつて水鳥が魚をくわえて飛び立っていったいにしへの情景が思い出されるかのようで、感慨もひとしおです。
【みうけんさんオススメの本もどうぞ】