夏の日差しが心地よく照りつける夏というものは、原付でのツーリングにむいている時季のひとつと考えます。
真夏の熱い太陽の下、ジリジリとした熱気を浴びつつも、半袖を通して体に吹き付ける風の爽やかさは車では味わえない爽快感だと思います。
さて、そんな夏の暑い日に、秦野市を見下ろす弘法山(こうぼうやま)にやって来ました。
この弘法山は丹沢山塊の南端に位置し、標高235mの頂上からは秦野市の街並みを一望し、遠くは相模灘や江ノ島、ランドマークタワーまで見通すことができます。
現在も山頂には釈迦堂、鐘楼、乳の井戸があるように、元々は弘法大師の修行の場と伝えられていたことからこの名が付きましたが、現在は近くの権現山や浅間山と並んで「弘法山公園」と呼ばれ、市民たちの憩いの場ともなっています。
さて、弘法大師というのは空海ともいって、現在の真言宗の始祖でもありますが、全国で親しまれていることから神奈川県にもたくさん伝説が残されており、ここ弘法山の山頂にある「乳の井戸」について、面白い言い伝えが残されています。
むかし、弘法大師がまだ名もなき若い修行僧だった頃のはなしです。
諸国を行脚する旅を続けていた若き日の弘法大師は、永い旅路の末に秦野の山野に辿り着きました。
あたりは次第に暗くなったので、たまたま近くにあった百姓の仁左衛門の家に一晩の宿を頼んだところ、仁左衛門の夫婦は快く迎えてくれました。
弘法大師は、仁左衛門に「近くの山で修行をしたい」と申し出るや、仁左衛門夫妻は村人を集めて弘法大師のために山頂に庵を建てるなど手厚くもてなし、弘法大師もここを拠点として修行に明け暮れる日々が続きました。
そんなある日、弘法大師は村人に向かって「近々、大きな火事が起こるであろう」と告げました。
数日後、その予言通りに火事が起きたので村人たちは驚きましたが、いつしか火をつけたのは弘法大師ではないかという疑いの声が起こるようになり、弘法大師を村から追い出せと息巻くものまで出る始末です。
しかし、弘法大師が「次は嵐が来て、鉄砲水により村の家々は押し流される」と予言します。半信半疑だった村人たちも雨が降り出すとみなが弘法山の高台へと避難したので、本当に鉄砲水が起きて家が押し流されても皆は無事に生きながらえたのです。
村人たちは、弘法大師の高徳と霊力にすっかり感心し、それからは弘法大師の言いつけを良く守るようになりました。
そんなある日、乳の出が悪く、子供に満足に乳を飲ませてやることができないという女がおりました。
弘法大師はこの訴えを聞き、しばらく念仏を唱えていたと思うと持っていた錫杖で地面を突いたのです。
不思議と、その穴からは水が出て来ました。
しかも、乳白色で乳の香りのする水です。
弘法大師は、女に「これで粥を炊き、食べるがよろしかろう」というのでさっそく水をくんで持ち帰り、粥にして食べたところ、それまでしぼんでいた乳がはちきれんばかりとなり、子供にお腹いっぱい乳を飲ませてやることができるようになりました。
さらに、その子は健やかに育ち、病気ひとつしなかったといいます。
この噂はたちまちのうちに近隣の村々に広がり、また飲むだけでも霊験あらたかであるということで、昭和の中頃まではこの水を求めて遠方から訪れる女性たちが後をたたなかったという事です。
このように里人たちから崇敬され、親しまれたこうぼうだいしでした。
しかし、再び諸国を巡る修行の旅へと再び出ていくと里人たちはその高徳をしのび、弘法大師がおられた山を「弘法山」と呼んで弘法大師のように崇めたということです。
いま、この弘法山はハイキングにも最適で、多くの里人たちが楽しそうに登っては景色を眺める光景を目にすることができます。
また、日露戦争の勝利を記念して植樹された桜は春にもなれば見事に咲き乱れ、花見の名所としても親しまれています。
いま、この弘法山の山頂に立つとき、かつて弘法大師も眺めたであろう眼下の光景に心奪われ、しばしの間眺めていましたが、かつての高僧がこの山に立つ庵で念仏三昧の日々を送った遠い日の思い出がよみがえって来るかのようで、感慨もひとしおです。
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