JR相模線の宮山駅からのどかな農村風景の中を歩いていくと、ほどなくして相模国の一之宮として名高い寒川神社にたどり着くことができるが、その社前にある静かなお寺が高野山真言宗の古刹である、霊信山・西善院である。
この西善院は、まだ神仏習合の頃に寒川神社の一部をなす仏教寺院であった。
神道と仏教が明確に分けられていなかった頃、神社での仏教行事を執り行う「供奉僧(ぐぶそう)」の役割として、節分の際には神酒を供え、また1月、6月、11月の各8日の祭、12月の不動祭を執行する役割を担っていた、と「寒川町史」には伝えられている。
ちなみに、寒川神社は格式の高い神社であったから供奉僧寺院も多く、この西善院の他には
- 薬王寺(やくおうじ=明治期の神仏分離令により寒川神社の神官となった)
- 神照寺(じんしょうじ=明治期の神仏分離令により寒川神社の神官となった)
- 中之坊(なかのぼう=明治期の神仏分離令により廃寺となった)
- 三大坊(さんだいぼう=明治期の神仏分離令により廃寺となった)
が、それぞれ存在していたと伝えられている。
なかでも、この西善院はかつての「相模国準四国八十八ヶ所巡り」の霊場であった第62番 薬王寺、第73番 神照寺に祀られていた弘法大師坐像が今なお残されているのである。
また、この寺院の本堂の脇には、弘法大師さまと握手をして縁を結ぼう、という「握手大師」さまなる真新しい石像がお立ちになって、人々の歩みを優しげに見守っているのである。
もったいないとは思いつつ、みうけんも握手をさせていただいた。
写真を撮りたかったので、失礼とは思いつつ片手での握手をさせていただいたが、これでより一層の仏縁が深まり、功徳となって積み上げられることを期待するばかりである。
このように、門を固く閉ざすこともなく、多くの人に開かれた寺院を作り、今なお衆生に対して仏縁を求めようとするお寺の姿勢には感服させられるばかりである。
日本の仏教界は葬式仏教、企業仏教と揶揄されて久しいし、たまに仏道から外れてしまった諸々を見る事すらままあるが、中にはこのように民衆の仏縁を手助けするお寺もあるという、頼もしい事を忘れてはならないだろう、と思わされるひとときであった。