横浜の副都心として発展も著しい上大岡の駅前を通る鎌倉街道を南下し、清水橋の交差点を過ぎて、藤ケ沢という交差点を右に折れていくと、さきほどの喧騒とはうって変わった静かな住宅街となり、また左手には農地や山林が広がるなど、昔の雰囲気をわずかにとどめている旧道へと変わっていく。
その先の野庭のあたりまでいくと、右手の町内会間を目印に、静寂の中に境内を保つ蔵王山正定院浄念寺がある。
この浄念寺は、戦国時代の終わりごろに野庭を開発した臼井杢右衛門胤知が開基であり、呑霊上人による開山である。
かつては、現在の野庭神社である蔵王権現御嶽社の別当寺を務め、鎌倉郡観音三十三ヵ所霊場の第18番札所でもあった。
この近く、現在は野庭団地の南の端の一角となっているところに、上野庭の島田というところがあった。
現在では、すっかり綺麗な団地に整備されて丘や谷はなだらかに整地されて、往時を偲ぶよすがもないが、もともとこのあたりは山深い里であり、訪れる人もあまりない寂しいところであったという。
※写真の位置は今回の民話における厳密な位置を示すものではない
ある日、玄入坊という諸国行脚の旅の僧がこの島田の里を通りかかったとき、ほかの地域に比べて明らかに貧しく、咳の病に苦しむ人が多いことに気づいた。
若者は薬代と生活費を稼ごうと戸塚や藤沢、保土ヶ谷の宿場まで出稼ぎにいき、村には咳の病に苦しむ年寄りと、その年寄りに子守りされる幼子ばかり、という有様に玄入坊は大いに心を痛め、この世のはかなさを嘆き悲しんだと伝えられている。
人というものは、明日への希望と元気な体さえあれば、どんなに辛くても耐え抜くことができるもの。
しかし、ここの里人たちには明日への希望も元気な体もなく、また玄入坊みずからも年老いて余命いくばくもない身、わが身の力のなさをひとしきり嘆くと、この生涯の終わりの地はここであると一念発起し、あわれな村人を救う捨て石とならんと一念発起したのである。
玄入坊はさっそく村人を集め、自らの決意を述べて、村人に大きな穴を掘らせた。
そして、自らはわずかな木の実と水のみを口にする木食修行によって骨と皮だけの身となると、身を清めて白装束に身を包み、カネを一つだけ持って自ら穴の中に入っていき、
「土の中から読経が聞こえる間は竹の筒を通して一日三回、水だけを流しこんでもらいたい。そして、いつしかその読経が絶えたときに、村人の苦しみを一身に引き受け、あなたたちは救われるであろう」と言い残して、穴に蓋をさせて土を盛り、自ら穴倉の中へと籠ったのである。
しかし、所詮はどこの馬の骨かも分からない乞食坊主の戯言、そのうちお賽銭でも盗んで逃げだすのが関の山、と村人は誰も本気にしていなかった。
しかし、3日たち、4日たち、竹筒を通して朗々と聞こえる読経とカネの音色は、時には力強く、時には力尽きる寸前まで鳴り渡り、暗闇の中で飢えと恐怖におののきながら一心に祈り続けた玄入坊は、生きながらにして成仏されたのである。
竹筒を通して聞こえていた読経が途絶えた日、不思議なことにあれほどまでに村人を苦しめた咳の病は嘘のように治っていた。
村人たちは、徳深き玄入坊の遺徳を称え、またなつかしみ、自らの不信を恥じて合掌号泣したさまが目に浮かぶようである。
村人たちは、決して玄入坊の志を忘れてはならぬと、その地に立派な塚を築き、その頂に榊の木を植え、石の祠を建ててねんごろに弔い、代々に渡って語り継がれて大切にお守りされたという。
しかし、時代は流れてこの地にも都市化と開発の波が襲い掛かってくると、さしもの玄入坊の塚も破壊されて団地となったが、この地を開発する際に土中からは座ったままの人骨が1体出土したという。
そして、祠だけは現在の浄念寺の墓地の奥の斜面の中腹へと移され、時代は流れて平成から令和へと変わった現代でも、咳の病に苦しむ人たちから「浄念寺の咳止め玄入坊」と呼ばれて信仰をうけ、時折お参りする人があるとのことである。
いま、この木々うっそうと茂る茂みの中で、墓地の裏にひっそりとたたずむ玄入坊の小さな祠にひとり向き合って手を合わせるとき、病と貧しさに苦しむ村人たちの苦悩と、その苦悩を一身に背負った名もなき高僧の力強い読経が今なおこだましてくるようで、生というものへのはかなさをしみじみと感じるのである。