海老名駅から小田急線に沿って北上していくと、線路沿いの住宅街の中に大きく開けた芝生の公園があります。
公園とは言っても目立った遊具などはありません。
その中には小さな庚申堂の祠と、いくつかの石仏が残されていますが、ここはかつて相模国分尼寺があったところとされています。
今からおよそ1200年ほど昔、ここには大きな伽藍を誇る尼寺が建ち、その中ではたくさんの尼僧たちが読経と修行ざんまいの日々を送っていた事など、まるで夢まぼろしのようです。
その多くの尼僧の中に「綱の尼」という尼僧がいました。
この綱の尼は、もともとは帝の第三皇子の姫君であったとされています。
高貴きわまる皇族の家に生まれながら母に先立たれ、その悲しみの涙も乾かない翌年には父にも先立たれてしまったのです。
それからというもの、来る日も来る日も愛おしき父母の事を忘れなかった綱の尼ですが、いつまでも悲しんでばかりもいられないと一念発起し、この悲しみを断ち切り全てをやり直すには新しい生活を始める他はないと、かつて父母が国守として勤めていた相模国の国分尼寺の門を叩いたのでした。
かつて住んでいた奈良から相模の国分尼寺まで435キロもある道のりです。
グーグルマップで調べると、徒歩であれば休憩なしでも91時間かかるそうです。
これだけの長旅を終えた綱の尼はただちに修行生活に入り、ここ相模国分尼寺で読経三昧の日々を送ったことでしょう。
この綱の尼は、不思議なことにいくら年老いても容姿は若く美しいままで、その美しさはまるで吉祥天女のようであったといいます。
朝な夕な、多くの尼僧たちを従えて御仏に仕えた綱の尼は、毎日何度となく法華経を唱えるのが日課でした。
その読経の声も実に美しく、皇族ならではを思い起こさせる気品の高い姿勢の中から響き渡る、朗々として麗しい読経の声は、多くの人々を感動させたといいます。
また、綱の尼は法華経の教義にも秀でており、二十品あった法華経のうち毎日一品ずつを弟子に向かって講義し、法華経の深遠なる功徳を説いては人々の心に沁み渡らせたということです。
この講義を聞いた者は、誰しもが仏の道に目覚め、善の行いをすすんで積むようになっていったといいます。
しかし、いくら徳の高い尼僧でも不老長寿というわけにはいきません。
ある日、年老いた綱の尼は床から起き上がると、弟子たちを集めてこう言いました。
「わたくしは永く法華経を唱えて過ごしてきました。
そのおかげでしょう、今まで重い病もなく、心を苦しませる悩みすら無く、平穏に暮らしてきました。
これより法華経の功徳を得て、今から7日の後には常日ごろから願っていた御仏のもとへと参ります。
私がいなくなっても法華経のありがたみを忘れる事なく、みなさんますます仏の道を求め続けてください」と。
それから7日目の朝、突如として空に妙なる音楽が流れ始め、寺のまわりには紫の雲が垂れ込め始めて、徐々に7色に変化して行ったそうです。
尼寺の一同は固唾をのんで空を見上げていましたが、皆が空に気を取られている間、それまで床の中でかすかに法華経を唱えておられた綱の尼は、いつしか息絶えて安らかな死に顔であったといいます。
このとき、綱の尼の年齢は100余歳とも148歳ともいわれていますが、これこそが本当の極楽往生だろうと、一同は悲しみの涙の中にも声高らかに法華経を唱和したのだそうです。
いま、この相模国分尼寺の跡には、綱の尼の事を説明する看板などは何もなく、ただ草むらの中に江戸期の古びた石仏のみが居並び、より一層のわびしさを醸し出しているかのようです。